弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

訴訟提起しないことを約束する退職合意書にサインしてしまっても、争う余地はある

1.不当な退職合意書

 退職代行を受任するきっかけに、使用者から不当な内容の退職合意書への署名・押印を強いられそうになったという類型があります。

 不当な内容の中身は様々ですが、代償措置もないまま同業他社には転職しないという約定や、いかなる理由があっても会社を訴えないという約定が典型です。

 こうした合意は使用者側でもダメ元で言っていることが多く、経験上、弁護士が代理人となって当該退職合意書の取り交わしには応じられないと通告すると、要求を撤回してくるケースが多いように思います。

 しかし、中には弁護士に相談しないまま、競業しないだとか、会社を訴えないだとかいった退職合意書に署名・押印してしまう人もいます。

 近時公刊された判例集にも、訴訟手続等の一切を行わないことを確約する内容の約定の効力が問題になった事案が掲載されていました。

 東京地判平30.5.22判例タイムズ1469-202です。

2.東京地判平30.5.22判例タイムズ1469-202

 この事件で被告となったのは、貸事務所及び貸会議室の経営等を目的とした株式会社です。

 原告になったのは被告との間で退職合意書を取り交わした労働者の方です。

 この退職合意書は幾つかの内容で構成されていましたが、その中に、

「原告と被告は、在職中に、セクシャルハラスメント及びパワーハラスメントに関する行為を行ったことも受けたこともないことを確認する」

「原告は、本件退職合意書締結以前の事由に基づき今後一切の異議申立て又は請求棟の手続(あっせん申立て、仲裁申立て、調停・訴訟手続等の一切)の行為を行わないことを確約する」

といった趣旨の約定が含まれていました。

 本件は、退職合意書の取り交わしは違法な退職勧奨のもとで行われたもので、錯誤により無効であるといったことを理由に、原告労働者が被告会社を訴え、未払賃金等を請求した事案です。

 この時、「訴訟手続等の一切・・・の行為を行わない」との約定(以下「不起訴の合意」といいます)の効力が問題になりました。

 裁判所は、結論として錯誤を否定し、原告の請求を棄却しましたが、次のとおり述べて、不起訴の合意の有効性は否定しました。

(裁判所の判断)

「被告は、本件訴えに係る権利ないし法律関係は不起訴合意の対象となっているから、本件訴えは不適法却下されるべきであると主張することところ、職権により、この点について検討する。」
「しかして、特定の権利ないし法律関係について、民事裁判手続による権利保護の利益を放棄する趣旨でされた不起訴の合意が存在するにもかかわらず提起された訴えは、不適法却下されるべきものと解されるところ、不起訴の合意の成否やその対象となる権利ないし法律関係の範囲等については、憲法32条等の趣旨を踏まえて慎重に判断すべきものといえる。」
「これを本件についてみるに、①不起訴等合意条項は、本件退職合意書締結以前の事由に基づく訴訟手続の一切についての不起訴を合意するものとされ、その対象となる権利又は法律関係の範囲が広範であって、具体的に特定されていないこと、②本件合意書締結当時、原被告間において、本件訴えに係る権利ないし法律関係に関する紛争は顕在化していたとはいえず、本件退職合意書に不起訴等合意条項を盛り込むか否かや不起訴合意の対象となる権利ないし法律関係の範囲について協議等がなされた形跡は窺われないこと、③不起訴等合意条項は、使用者である被告の用意した本件退職合意書にあらかじめ印刷されていたものであるうえ、原告のみが不起訴を確約する片面的な内容になっていることに鑑みると、原告の請求がいずれも形式的には本件退職合意書締結以前の事由に基づくものとみなしうることを考慮しても、原告が、被告との間で、不起訴等合意条項を含む本件退職合意書を取り交わしたことにより、本件訴えに係る権利ないし法律関係について、民事裁判手続による権利保護の利益を放棄したとまでは認めることはできない。

「以上によれば、本件訴えについて、不起訴の合意の効力が及ぶとはいえない」

3.不当な合意は交わさないのが一番ではあるが・・・

 一方的に不利益を受けるような内容の書面の取り交わしには応じないのが一番です。合意を無理強いする根拠はないのが普通であり、明確な意思をもって断れば、それで済むケースが多いとも思います。

 ただ、およそ訴訟手続の一切を行わないといった極端な内容の合意に関しては、取り交わしてしまったとしても、その効力を争える可能性があります。

 訴訟提起できなくなるというのは、かなり重大な効果です。ハラスメントを受けて損害を賠償する権利があったとしても、多額の残業代を請求する権利があったとしても、有効な不起訴の合意がなされている場合、請求権の存否や内容の判断に行きつく前に却下されてしまいます。

 行き掛かりから訴訟手続をとる権利を放棄する書面にサインしてしまったものの後悔している、そうした思いをお抱えの方は、不起訴の合意の効力を否定する余地がないのかを確認するため、一度、弁護士に相談してみると良いと思います。