1.被告による動画配信
ネット上に、
「元NGT山口真帆事件の被告男性『動画配信で80分独白』の衝撃」
という記事が掲載されています。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191225-00000006-tospoweb-ent
記事はNGT裁判の被告がどのような話をしているのかを淡々と伝えています。
前にも何度か言及したことがありますが、マスメディアがこうした話を拡散することに関しては、もう少し慎重さがあってもよいのではないかという気がします。主な根拠は以下「2」「3」の二点です。
2.被告の意図がよく分からないこと
一つ目の根拠は、被告の意図がよく分からないことです。
記事には、
「山口への暴行容疑で2人の男性が逮捕されてから1年が経過。次回裁判(新潟地裁)の弁論準備手続きは来年1月29日に行われる。そんな中でX氏は今月19日、肉声のみを配信。通称「ツイキャス」と呼ばれる動画配信サービス・TwitCastingで、独白は1時間20分にわたった。弁護士から発言への許可を取っていることも明かした。」
と書かれています。
しかし、これは普通のことではありません。
一般論として言うと、係争途中の事件について、依頼人から自分の認識を動画配信してよいかと聞かれた場合、弁護士がこれを推奨することはありません。訴訟に勝つための行動として合理的ではないからです。
ネット上で音声を流すことは、それが録音によって固定化される危険を多分に含みます。
話したことが録音によって固定化されると、それとは矛盾する事実が出てきたとき非常に困ります。間違えるはずのないところで不正確な供述がなされていれば意図的に嘘を言っていると認定されるかも知れませんし、そうでなくても記憶が不正確なことの根拠として使われる可能性を生じさせます。
また、供述の固定化は、訴訟戦略の阻害要因になります。一旦供述が固定化されると、それとは違ったストーリーを構築することができなくなってしまうのです。
例えば、AKSの第三者委員会の報告書では、
「山口氏が『私のこと顔つかんで、顔押し倒して入ろうとしたじゃん。』と発言したことに対し、『そこまではしていない』と発言している。」
録音データの存在が指摘されています(6頁)。
https://ngt48.jp/news/detail/100003226
第三者委員会はこれを
「山口氏の発言のうち顔をつかんだ点を明確に否定しているものではない。」
と評価し、
「顔面をつかむ暴行を行った暴行が認められる」
と結論付けています(8頁)。
顔をつかんだ点を明確に否定していない録音データが存在する状況下において、「顔をつかんでいない」と主張しようとすると、録音がとられている時点で顔をつかんだことを明確に否定していなかったことの理由を説明する必要が生じます。
その理由が合理的で誰もが納得できることであれば問題ないのですが、そうではない場合、不合理に供述を変遷させたとして、供述の信用性に疑問を持たれます。日常用語で表現すると、大した理由もないのに言っていることがコロコロ変わる人の話は信用しづらいということです。
訴訟は対立当事者がどのような資料を持っているかが分からない中で行われます。
矛盾する証拠がいつ出てくるか分からない、将来の訴訟戦略が限定されるという危険を負ってまで、ネット上に肉声を残すことに合理性はありません。陳述書も本来は訴訟の初期段階で出るような証拠ではありません。陳述書が出されるのは、通常は主張や証拠の整理が一通り終わった後、尋問を準備する段階で出されます。
対立当事者が記者会見などをやって一方的な主張を垂れ流している時に、社会的地位など失うものが非常に大きいという場合には一定の情報発信が必要なこともありますが、本件はそのような場合には該当しないと思います。
報道にある事情だけでは被告の意図がどこにあるのかまでは分かりません。しかし、訴訟に勝とうとしている人間の合理的な行動でないことまでは分かります。
そうした中で、多くの人の目に触れるメディアが被告の声を拡散することについては多少の慎重さがあってもよいのではないかと思われます。より具体的に言えば、被告の意図がどこにあるのかを探求し、見極め、それとの関係で被告の言い分をどのように評価するのかを考察する姿勢が、もう少しあってもいいのではないかと思います。
3.対立当事者による反論に晒されていない供述の証拠にそれほどの価値がないこと
慎重さがあってもよいと考える二つ目の根拠は、陳述書や肉声には、それ自体に証拠として高い価値があるわけではないことです。
記事には、
「事件時、山口がメンバーの関与を疑った根拠は、山口に問い詰められたX氏がメンバー8人の名前を口にしたことだ。しかしX氏は『事件に関与したメンバーの名前を挙げたものではない』と、提出した陳述書で反論。さらに視聴者から『なぜ名前を出したのか?』と追及されると、『なんでって言われてもな…』と回答を避けた。」
「この点についてX氏は陳述書で、駆けつけたNGTスタッフに山口との関係を気付かれないための『適当なウソ』としている。この点を踏まえて『演技した?』と聞かれたX氏だが、『ノーコメントですね』とした。」
といったように陳述書という言葉が散見されます。
陳述書に書かれていること(配信される肉声も基本的には似たようなものです)は、単なる一方当事者の主観的認識にすぎません。対立当事者による吟味・検討、反論に晒され、それでも揺らがない供述であって初めて証拠としての価値が生じます。
これは何も私だけが言っているわけではありません。
反対尋問(対立当事者によって行われる信用性を吟味・検討するための質問)を経ない陳述書の扱いに関しては随分前から問題意識を持たれています。
例えば、2008年3月1日に発行された判例タイムズという雑誌に、当時さいたま地方裁判所部総括判事であった近藤壽邦らがまとめた「陳述書の活用について」という論文が掲載されています(判例タイムズ1258-35参照)。
ここでは、
「陳述書の内容によって判断し、それが事件の核心に触れるようなものである場合は、裁判所としては、事案を解明して心証を採るため、その作成者を証人尋問すべきであり、それを陳述書で済ませるというような訴訟進行は望ましくないといえよう。したがって、相手方当事者から尋問申請があれば、反対尋問権の保証、陳述書の類型的な証明力の低さという観点からして、人証調べをするのが原則であろう。」
「事件の核心に触れるような内容の陳述書で、しかも反対尋問を経ていない陳述書の証明力は低いといわざるを得ない」
との認識が示されています。
陳述書が単なる主観的認識を語るものでしかないことや、反対尋問を経ることのない陳述書を事実認定に用いることの危険性・不当性は10年以上前から議論されていることであり、法律家にとっては常識の範疇に属する事柄です。陳述書は「ここにはこう書いてあります」といったように、胸を張って引用するような類の文書ではないのです。
本件では実効性のある反対尋問が行われるかにも疑義はありますが、その反対尋問すら行われていない陳述書に書かれていることを拡散してゆくことに、果たしてどれだけの意味があるのだろうかと思います。
個人的な感覚としては、被告がそう言っているとして、それが真実に合致することなのかを取材等で検証することなく記事として拡散してゆくことには、もう少し慎重さがあってもいいような気がしています。ともすると、不正確な事実の拡散に手を貸すことにもなりかねないからです。
4.違和感を持ったのであれば、その正体を突き止めてから報道してはどうか
記事は、
「裁判中に動画配信するとは、なんとも大胆な行動としか言いようがない。」
と締め括っています。
私が言うことでもありませんが、折角違和感を持ったのであれば、取材を重ね、真相を探求し、被告の意図がどこにあるのか、自分が持った違和感の正体は何なのかといったことにまで踏み込んでもよかったのではないかと思われます。