弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

パソコンに保存されているだけの就業規則に拘束されるか?-見たこともない就業規則を盾に損害賠償を請求されている方へ

1.就業規則の周知性

 労働契約法7条本文は、

「労働者及び使用者が労働契約を締結する場合において、使用者が合理的な労働条件が定められている就業規則を労働者に周知させていた場合には、労働契約の内容は、その就業規則で定める労働条件によるものとする。」

と規定しています。

 要するに、労働者を採用する場面では、無茶な内容の労働条件を定めている場合であればともかく、そうでない場合、就業規則を周知させておけば、その内容が自動的に労働条件に組み込まれるということです。

 就業規則の周知は労働基準法106条によって使用者に義務付けられています。周知の方法は労働基準法施行規則52条の2によって、

一 常時各作業場の見やすい場所へ掲示し、又は備え付けること
二 書面を労働者に交付すること
三 磁気テープ、磁気ディスクその他これらに準ずる物に記録し、かつ、各作業場に労働者が当該記録の内容を常時確認できる機器を設置すること

の三つの方法が規定されています。

 ただ、労働契約法7条の「周知」はかなり緩やかで、

「本条にいう『周知』とは労基法上定められた法定周知手続によるものに限られず、実質的周知、すなわち、労働者が知ろうと思えば知りうる状態にしてこうことで足りる。実質的周知とは、たとえば、作業場とは別棟の食堂や更衣所に就業規則をファイルに綴じて備え付け、労働者が見ようと思えばいつでも見ることができるような状態である。労働者が実際に認識しているかどうかは問題とならない。

と理解されています(荒木尚志ほか『詳説 労働契約法』〔弘文堂、第2版、平26〕113頁参照)。

 上記のような緩やかな理解が採用されているため、就業規則の周知性が否定される例は、実務上、それほど目にすることがありません。

 しかし、近時の公刊物に、就業規則の周知性が否定された裁判例が掲載されていました。東京地判平31.3.25労働判例ジャーナル90-55 ムーセン事件です。

2.ムーセン事件

 この事件で原告になったのは、人材派遣業などを業務内容とする株式会社です。

 被告になったのは、原告を退職し、外国人の人材派遣業などを業務内容とする合同会社の業務執行社員に就任した方です。

 原告の就業規則には、

「会社のビジネスモデル、財務状況、人事、顧客及び関連企業の情報・・・については、最高機密事項とし、在職中はもちろん,退職後もこれら機密事項を他に漏らし、利用しまたはコピー(各種記録メディアを含む)、通信等(メールによる添付ファイル送信、外部サーバーでの共有設定を含む)による持ち出しを行ってはならない。」

「従業員は退職後を想定し、第10条の誓約に違反して、第三者のためまたは自己のために、在職時における地位、担当または顧客リスト等の機密情報を利用し、会社の顧客に対し勧誘またはそれを疑われるような背信的営業行為をしてはならない。」

などの定めがありました。

 こうした規定に違反して競業しているとして、原告が被告に対して損害賠償を請求したのが本件です。

 この事件では就業規則の周知性が争点の一つとなりました。

 原告は、

「本件就業規則等の社内規程は、原告の全従業員が会社のパソコン上で閲覧することができる共有フォルダ内に電子データで保存されており、その旨全従業員に対し入社時に説明して周知されている。」

と主張しましたが、被告は、

「原告在職中に本件就業規則を見たことがない上、原告入社時に会社のパソコンの共有フォルダ内に就業規則等の社内規程が存在することを説明されておらず、原告は,本件就業規則について周知義務を履行していないから、・・・本件就業規則の効力は及ばない。」

と反論しました。

 これに対し、裁判所は次のとおり判示し、就業規則の周知性を否定しました。

(裁判所の判断)

「前記認定事実・・・、証拠・・・及び弁論の全趣旨によれば、原告が被告P3及び被告P4の入社に当たり作成した『雇用契約書兼就業条件明示書』において、就業規則に言及されている部分があること、原告は、平成25年4月2日、会社のパソコンの共有フォルダ『社内規程』内に『AP契約社員就業規則』、『AP正社員就業規則』、『AP派遣社員就業規則』という名称の電子ファイルを保存していたことが認められるものの、原告が被告P3及び被告P4を含む従業員に対し、就業規則を保存した場所やその内容を確認する方法について説明していたとは認められない・・・。また、上記電子ファイルと平成28年6月1日制定・実施とされる本件就業規則・・・が同一のものか否か、変更された部分があるとすれば、いつどのような手続を経てどこが変更されたのかも判然としない。
上記事情に照らすと、本件就業規則は周知等がされておらず、被告P3及び被告P4に対して効力が及ばない。

3.見たこともない就業規則を盾に損害賠償を請求された方へ

 実務上、就業規則の周知性を争点化する事案は、それほど多くないように思います。それは、冒頭で述べたとおり、就業規則の周知性は、極めて緩やかに認定されてしまうからです。通説的な見解に立てば、そもそも実際に認識していなくても問題にならないというのが議論の出発点として位置づけられています。結論が見えているため、争点化する誘因が湧かないのだと思います。

 しかし、就業規則を見たことがないという人は、法律相談をしていると割と目にする印象があります。普通の人にとっては、揉め事になるまで、あまり関心を持つ類の文書ではないのだろうと思います。

 本件裁判例のような場面で周知性が否定されるのであれば、従前「認識可能性があるから、周知性で争うのは無理そうだな。」と思っていた事案においても、争点化してみれば、案外いけるかも知れないなと思えてきます。

 特に、退職後、見たこともない就業規則の規定を盾に損害賠償請求されているようなケースにおいては、周知性を主要な争点の一つにできる事案は、それなりにあるかも知れません。

 お困りの方がおられましたら、ぜひ、一度ご相談ください。