弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

通勤手当の不正受給と懲戒処分-就業規則の変更によらず用語の解釈を変更することは可能なのか?

1.通勤手当の不正受給

 通勤手当の不正受給を理由に懲戒処分が出されることがあります。

 この種の紛争は、住民票上の住所地と、実際の住所地が異なる場合に、しばしば問題になります。

 近時も、こうした場合に、懲戒処分をすることができるかが問題になった事案が公刊物に掲載されていました。

 東京地立川支判平31.3.27労働判例ジャーナル88-23 学校法人明海大学事件です。

 本件は、通勤手当の不正受給を理由に懲戒解雇となり、退職金の支給を受けられなくなった大学教授が、懲戒解雇は無効であるとして退職金等を請求した事件です。

 従前、住民票上の住所地として理解されていた「自宅」の概念について、使用者側が独自の定義付けを試みて懲戒処分をしたものの、裁判所は、そうした手法による懲戒解雇の効力を否定しました。

 退職金は約2434万円に及ぶものであったため、原告となった大学教授について切実な問題だったのだと思います。

2.学校法人明海大学事件

(1)被告学校法人明海大学が主張した懲戒事由

 被告学校法人明海大学が主張した懲戒事由は次のとおりです。

「原告は、平成19年4月から平成29年2月までの間、本件大学への出勤日には、βルートで自動車通勤(自動車通勤距離片道14.6km)していたにもかかわらず、被告から、αルート(自動車通勤距離片道57.3km)による自動車通勤手当を不正に受給し、上記期間中の不正受給金額はおよそ398万0300円に上る」

 しかし、原告の住民票上の住所地はα宅であり、生活実体もα宅にありました。

 このことについて、裁判所は次のとおり認定しています。

「原告の住民登録地は現在もα宅であり、α宅の住宅ローンの支払も継続しているほか、自家用車の登録もα宅である。そして、原告は、α宅で週の大半を過ごすとともに研究を行っており、研究のための書籍や調査資料の多くもα宅で保管している。原告の生活の拠点及び研究の本拠地はα宅である。」

 ただ、子どもの通学や身内の不幸から、妻の実家であるβルートでの通勤をしていたこともあったようです。特に、平成26年4月以降は、金曜以外、β宅から出勤してβ宅に帰宅する生活を送っていたようです。

 このことについて、裁判所は次のとおり認定しています。

「原告は、原告の妻子が子の就学や身内の不幸等の理由により妻の実家であるβ宅で暮らすようになったため、平成20年4月以降(なお、原告は、平成29年2月27日付けの書面(甲10)で、妻子の転居時期は正確には平成19年4月であった旨訂正している。)、β宅からも浦安キャンパスに通勤するようになった。具体的には、木曜日の夜又は金曜日から月曜日まではα宅で生活・研究をしているが、火曜日に1時限目の授業があるため、月曜日の夜にα宅からβ宅へ移動し、火曜日朝にβ宅から浦安キャンパスに出勤している。また、水曜日については、β宅から浦安キャンパスに出勤し、浦安キャンパスからβ宅に帰宅している。木曜日については、平成26年3月までは、往路はβ宅から浦安キャンパスに出勤し、復路はβ宅に立ち寄ってからα宅に帰宅していたが、同年4月以降は、β宅から出勤してβ宅に帰宅し、金曜日にα宅に帰宅するようになった。」

 本件では上記のような事実認定を踏まえ、原告大学教授のしたことが、就業規則64条7号の「刑事犯罪にあたる行為をしたとき」等に該当するかが争われました。

(2)不正受給に関する裁判所の判断

 裁判所は次のとおり述べて、通勤手当の基準となる「自宅」は住民票上の住所地であると判示し、不正受給はないと結論付けました。

「被告は、支給要領及び支給細則にいう『自宅』とは、〔1〕本人の就業のための拠点であり、〔2〕同拠点から勤務地に通勤することが常態となっており、〔3〕家族との同居や自己の起臥寝食の場であるといった『自宅』としての実質を備え、かつ、〔4〕原則として通勤手当の額が最も少なくなる場所をいうものと解するのが相当であるとした上で、原告は、その『自宅』が、遅くとも平成19年4月以降、α宅からβ宅となっているにもかかわらず、通勤経路がβルートとなった旨の届出をせず、平成19年4月から平成29年2月までの間、故意をもって、αルートによる通勤手当とβルートによる通勤手当の差額合計399万6500円を不正に受給した・・・旨を主張する。」
「しかしながら、支給要領及び支給細則のいう『自宅』について、これを定義付ける規定はなく、また、被告が職員に対し、その意義について説明したことはないことに加え(証人P5)、給与規程、支給要領及び支給細則の文言自体に照らしてみても、『自宅』の意義について、直ちに被告の主張する上記のような解釈を採ることはできない。」
「むしろ、これまでの被告における支給要領及び支給細則の運用状況をみるに、被告は、通勤距離をデジタルマップで測定しているところ、その測定に当たっては、通勤届等記載の住所地を自宅とみなして、これをスタート地点の住所とし、勤務先住所地をゴール地点の住所としてデジタルマップに入力している(前記2(1)イ)。また、被告においては、被告が発行する法人役員及び教職員の住所録に複数の住所や電話番号が記載されている者についても、従前、特段の調査をすることなく、本人が届け出ている通勤届等の記載に基づき、「自宅」や通勤経路を認定し、それを基に通勤手当を算定し、支給している(前記2(2)イ)。これらの点からすれば、被告は、支給要領及び支給細則にいう『自宅』は通勤届等記載の住所地と同義のものとして運用してきたものといえる。
「そして、就業規則によれば、被告の職員は、採用時に住民票記載事項証明書を提出し、住民票記載の住所地を申告することとなっており(5条6号)、現住所に変更があった場合に変更を届け出ることが義務付けられている(47条)。この就業規則の規定に加え、届出の書式についても、自動車通勤手当の制度の導入以降は、住所届と通勤届が一体となった住所・氏名変更・通勤届の書式が利用されていることからすると(前記2(2)ア、ウ)、通勤届等に記載する住所地は、原則として、住民票記載の住所地であるとして解釈、運用されてきたものといえる。
「そうすると、被告においては、上記『自宅』と通勤届等記載の住所地、住民票記載の住所地は同義のものとして解釈、運用されてきたものというべきである。」

 結果、裁判所は、本件では懲戒事由が認められないとして、原告に対して退職金を支払うよう被告学校法人明海大学に命じました。

3.就業規則の変更によらず、用語の解釈を変更することは可能なのか?

 就業規則には、使用されている用語の定義が厳密に規定されていないことが珍しくありません。

 このような場合、使用者側の恣意によって、従来問題とされていなかったことが、突如として問題にされることがあります。

 本判決は支給要領や支給催促の運営状況や支給実体から通勤手当を支給する基準となる「自宅」の意味内容を定義し、そとの関係で不正受給はないと結論付けました。

 もし、被告学校法人明海大学の主張が通ったとすれば、自宅概念の解釈の変更という恣意の混入し易い事情により、就業規則の変更を実現できるかのような帰結が許容されることになってしまうため、裁判所の判断は妥当であるように思われます。

 あまり考えられたことのない問題だと思いますが、使用者が現在採用している用語の定義を就業規則の変更手続によらずに変更することができるのかについては、掘り下げた研究がなされても良いのではないかと思います。