弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

心停止だけれども労災の対象疾病に該当しないとされた例

1.脳・心臓疾患の労災補償

 令和3年9月14日 基発0914第1号「血管病変等を著しく増悪させる業務による脳血管疾患及び虚血性心疾患等の認定基準について」(令和5年10月18日改正)は、脳・心臓疾患の労災補償について、次のとおり規定しています。

業務による明らかな過重負荷が加わることによって、血管病変等がその自然経過を超えて著しく増悪し、脳・心臓疾患が発症する場合があり、そのような経過をたどり発症した脳・心臓疾患は、その発症に当たって業務が相対的に有力な原因であると判断し、業務に起因する疾病として取り扱う。」

脳・心臓疾患の労災補償について|厚生労働省

https://www.mhlw.go.jp/content/001157873.pdf

 要するに、

業務による明らかな荷重負荷

脳・心臓疾患の発症、

過重負荷と脳・心臓疾患との間の因果関係

がある場合、当該脳・心臓疾患は、労災の対象になります。

 しかし、ここでいう脳・心臓疾患には、次のとおり限定が付されています。

「本認定基準は、次に掲げる脳・心臓疾患を対象疾病として取り扱う。

1 脳血管疾患

(1)脳内出血(脳出血)

(2)くも膜下出血

(3)脳梗塞

(4)高血圧性脳症

2 虚血性心疾患等

(1)心筋梗塞

(2)狭心症

(3)心停止(心臓性突然死を含む。)

(4)重篤な心不全

(5)大動脈解離」

 要するに、脳・心臓疾患であれば、無条件に労災の対象となるわけではなく、労災給付を求めるためには、当該脳・心臓疾患が対象疾病に該当している必要があります。

 しかし、近時公刊された判例集に、心停止でありながら、対象疾患には該当しないと判示された裁判例が掲載されていました。東京地判令6.3.14労働経済判例速報2562-13 国・中央労基署長(順天堂医院)事件です。

2.国・中央労基署長(順天堂医院)事件

 本件は労災の遺族補償給付等の不支給処分の取消訴訟です。

 被災者は、大学医学部付属医院(本件医院)で看護師として働いていた方です。この方は、リンパ球性心筋炎によって心筋細胞の損傷が起き、同一心房結節などの刺激伝導系が傷害された結果、心筋収縮の調和が乱れる心伝導障害を生じ、不整脈となったことで、心臓機能が停止し、自宅において死亡していることが確認されました。

 被災者の両親は、これを業務による死亡と主張し、遺族補償給付や葬祭料を請求しましたが、処分行政庁(労働基準監督署長)は、不支給とする判断を下しました。

 これに対し、審査請求、再審査請求を経て、取消訴訟を提起したのが本件です。

 本件では、被災者の疾患が対象疾病に該当するのかどうかが争点となり、裁判所は、次のとおり述べて、被災者の疾患は対象疾病には該当しないと判示しました。結論としても、原告の請求を棄却しています。

(裁判所の判断)

「被災者は、死亡の8~5日前頃に心筋炎の原因となったウイルスに感染し、死亡の2日前に倦怠感、息苦しさ及び心外膜炎によると考えられる動悸・胸痛といった初発症状を生じ、同日に動悸のため3点式心電図をとったものの異常は発見できず、医療機関を受診することなく、死亡の1日前には、動悸を鎮める売薬を服薬したのみで、翌日午前の待ち合わせの約束を変更・キャンセルすることもなく、ベッド上で亡くなったものである。そして、その死亡の機序は、リンパ球性心筋炎において起きる心筋細胞の傷害によって心臓の刺激伝導系が傷害され、致死性不整脈を生じ、心臓機能が停止(心停止)したことによる。」

「そして、急性心筋炎のガイドラインにおいては、急性心筋炎のため無症状で経過し突然死で発見される場合があること、不整脈では心室頻拍や心室細動、心静止の出現は致死的であること・・・が紹介されているが、どのような症例において、このような危険で致死的な不整脈を生じるのかは明らかにされていない・・・。被災者のようにリンパ球性心筋炎によっ刺激伝導系が傷害された場合、電気的不均衡、心伝導障害により致死的不整脈が生じることは説明ができるが・・・、どのような症例で、どのような不整脈が生じるのかは明らかにされていない・・・。」

「したがって、被災者において、リンパ球性心筋炎による刺激伝導系の傷害によって、初期症状の発現からわずか2日後に致死的不整脈が生じたことについて、業務の過重負荷が関与したと認めるべき医学的知見は存在せず、この点について業務との関連性は否定されるというべきである。」

「また、被災者に起きた致死性不整脈による心停止は、リンパ球性心筋炎による心筋の傷害が刺激伝導系において発生したことによるものであるところ、被災者におけるこの経過は、感染から数日以内、初発症状から2日後といったごく短期間で起きた現象であって、業務の過重負荷が関与する暇はなかったものであるから、被災者においてリンパ球性心筋炎による致死性不整脈が感染から間もなく早期に生じたことについて、業務との関連性を認めることができない。」

「そして、脳・心認定基準は、脳・心臓疾患には発症の基礎となる血管病変等が長い年月の営みの中で徐々に形成、進行するものがあるところ、これが業務の過重負荷によって自然的経過を超えて増悪することがあることから、そのような脳・心臓疾患を対象として、業務起因性の判断を行うために設けられたものである・・・。したがって、被災者のように、初発症状の発言から2日後に心伝導障害を生じ致死性不整脈により心停止し死亡するといった経過の急性心筋炎による致死性不整脈は、脳・心認定基準の適用の前提を欠くというべきである。」

(中略)

「したがって、脳・心認定基準、令和3年報告書及び平成13年報告書のいずれからいっても、被災者のように、初発症状の発言から2日後に心伝導障害が生じて致死性不整脈により死亡するといった急激な経過をたどる急性心筋炎による致死性不整脈については、脳・心認定基準の『心停止(心臓性突然死を含む。)」には該当しないというべきである。

3.対象疾病と疾患名が一致しているだけではダメなことがある

 以上のとおり、裁判所は、被災者の心停止は、労災の対象疾患としての「心停止(心臓性突然死を含む」には該当しないと判示しました。

 対象疾患の要件については、名称さえ合致していれば、後は業務による明らかな荷重負荷が認められるか否かの問題だと即断してしまいがちです。

 しかし、名称が合致していていも、沿革や趣旨に照らし、対象疾病には該当しないと判断されることがあります。裁判所の判断は、脳・心臓疾患に関する労災事件の見通しを考えるうえで参考になります。

 

夜間時間帯は全体として労働時間に該当するわけではないという争い方が裏目に出た例

1.夜勤時間帯における賃金単価が最低賃金以下とされた例-その後

 以前、

夜間時間帯における割増賃金算定のための賃金単価を最低賃金以下にすることを認めた例 - 弁護士 師子角允彬のブログ

という記事を書きました。

 この記事の中で紹介した、千葉地判令5.6.9労働経済判例速報2527-3 社会福祉法人A事件は、

夜勤(午後9時~翌日午前6時、休憩1時間)1日につき6000円の夜勤手当が支払われていたという事実関係のもと、

「被告における夜勤時間帯の割増賃金算定の基礎となる賃金単価は、750円であると認めるのが相当である。」

と判示しました。

 これは最低賃金を下回る水準で賃金単価を設定することを認めたもので、高裁でも維持されるかは甚だ疑問だと指摘しました。

 その後、控訴審の行方を注視していたのですが、やはり高裁で破棄されたようです。近時公刊された判例集に控訴審判決が掲載されていました。東京高判令6.7.4社会福祉法人A事件です。

2.社会福祉法人A事件

 本件はいわゆる残業代(割増賃金)請求事件です。

 被告(被控訴人)になったのは、千葉県○市内において、複数の福祉サービス事業所を運営している社会福祉法人です。

 原告(控訴人)になったのは、被告との間で期間の定めのない労働契約を締結し、グループホームで入居者の生活支援業務を担っていた方です。原告と被告との間では夜勤(午後9時~翌日午前6時、休憩1時間)1日につき6000円の夜勤手当が支払われていましたが、夜勤時間帯の割増賃金が支払われていないとして、被告を提訴したのが本件です。

 原審が賃金単価を750円として残業代を計算したことに対し、原告側が控訴したのが本件です。

 本件の裁判所は、次のとおり述べて、原審が採用した被告の主張を排斥し、原告の主張に基づいて判決を変更しました。

(裁判所の判断)

「被控訴人は、夜勤時間帯から休憩時間1時間を控除した8時間の労働の対価を夜勤手当6000円とする旨の賃金合意があったから、夜勤時間帯の割増賃金算定の基礎となる賃金単価は750円となると主張する。」

「しかし、被控訴人は、これまで、グループホームの夜勤時間帯に被控訴人の指揮命令下で生活支援員が行うべき業務はほとんど存在しないという認識を前提として、就業規則においては、巡回時間を想定した午前0時から午前1時までの1時間を除き、夜勤時間帯を勤務シフトから除外し・・・、本件訴訟においても、夜勤時間帯については緊急対応を要した場合のみ申請により実労働時間につき残業時間として取り扱う運用をしていると主張し、夜勤時間帯が全体として労働時間に該当することを争ってきたものであって、控訴人と被控訴人との間の労働契約において、夜勤時間帯が実作業に従事していない時間も含めて労働時間に該当することを前提とした上で、その労働の対価として泊まり勤務1回につき6000円のみを支払うこととし、そのほかには賃金の支払をしないことが合意されていたと認めることはできない。

労働契約において、夜勤時間帯について日中の勤務時間帯とは異なる時間給の定めを置くことは、一般的に許されないものではないが、そのような合意は趣旨及び内容が明確となる形でされるべきであり、本件の事実関係の下で、そのような合意があったとの推認ないし評価をすることはできず、被控訴人の上記主張は採用することができない。

3.足元を掬われて時間単価750円が否定されたのは良いが・・・

 本件の被告(被控訴人)は、

緊急で業務が発生した場合に実労働時間を残業時間として取り扱う運用をしていた

夜勤手当は労働密度の薄い夜間時間帯における待機的拘束の対価である、

という主張をしていました。

 控訴審が採用したロジックは、

6000円が労働時間における労働の対価でないなら、時間単価が6000円÷8時間になることもないだろう、

というもので、極めて素直な判断だと思います。当たり前のようにも思えますが、時給750円を認めた原審判断が破棄されたのは良かったと思います。

 ただ、裁判所は、上述のとおり判示する一方、夜間時間帯に日中時間帯とは異なる時間給の定めを置くこと自体は許容しました。こうした判断がなされると、夜間時間帯の時間給を日中時間帯に比して極端に低くする事例の出現が懸念されます。そうした賃金設定の合意には一定の制限が課せられてはいますが、判決の影響については、今後とも注視して行く必要がありそうです。

 

廃棄食材の持ち帰りを理由とする懲戒免職処分の可否-標準例の枠内でなされた懲戒免職処分が取り消された例

1.公務員の懲戒処分の取消訴訟

 公務員に対する懲戒処分が違法となる場合について、最三小判昭52.12.20労働判例288-22 神戸税関事件は、

「公務員につき、国公法に定められた懲戒事由がある場合に、懲戒処分を行うかどうか、懲戒処分を行うときにいかなる処分を選ぶかは、懲戒権者の裁量に任されているものと解すべきである。もとより、右の裁量は、恣意にわたることを得ないものであることは当然であるが、懲戒権者が右の裁量権の行使としてした懲戒処分は、それが社会観念上著しく妥当を欠いて裁量権を付与した目的を逸脱し、これを濫用したと認められる場合でない限り、その裁量権の範囲内にあるものとして、違法とならないものというべきである。したがつて、裁判所が右の処分の適否を審査するにあたつては、懲戒権者と同一の立場に立つて懲戒処分をすべきであつたかどうか又はいかなる処分を選択すべきであつたかについて判断し、その結果と懲戒処分とを比較してその軽重を論ずべきものではなく、懲戒権者の裁量権の行使に基づく処分が社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権を濫用したと認められる場合に限り違法であると判断すべきものである。

と判示しています。

 平たく言うと、

「処分が社会観念上著しく妥当を欠(く)

という極限的な場合にしか違法にならないということです。

 このような仕組みがとられているため、公務員の懲戒処分が違法無効であるとして取り消されることは、実務上、それほど多くはありません。

 特に、当該公務員に対して行われた懲戒処分が、懲戒処分の標準例の範囲に収まっている場合は猶更です。標準例というのは、代表的な非違行為の類型と、それぞれにおける標準的な懲戒処分の種類を結び付けたものといいます。国家公務員の場合、「懲戒処分の指針について(平成12年3月31日職職―68)」がありますが、地方公務員の場合にも、似たような標準例が定められています。

懲戒処分の指針について

 こうした状況の中、近時公刊された判例集に、処分量定が標準例に収まっていながらも処分量定が「重きに失する」として取り消された裁判例が掲載されていました。名古屋地判令6.7.22労働経済判例速報2562-7 名古屋市・市教育委員会事件です。

2.名古屋市・市教育委員会事件

 本件で原告になったのは、学校給食の調理員として勤務していた地方公務員の方です。

「令和4年2月3日、A小学校・・・の調理場において、勤務中、保存食として冷凍保存されていた油揚げ2袋、クロワッサン1個及びリンゴロールパン1個・・・を、自宅に持ち帰り食べることを目的として、自分の鞄に入れた」

という非違行為により、

懲戒免職処分、

一般の退職手当等(1149万1148円)の全部を支給しないこととする本件退職手当不支給処分

をされたため、これら各処分の取消を求めて出訴したのが本件です。

 直観的にやりすぎであるのは確かなのですが、「名古屋市教育委員会における懲戒処分の取扱方針」では「公金又は物品を窃取した職員」について「免職」と定められていました。

 このような事実関係のもと、本件では処分量定の適否が問題になりました。

 裁判所は、次のとおり述べて、懲戒免職処分は重きに失しているとして、処分は違法であるとし、原告の請求を認めました。

(裁判所の判断)

「本件非違行為は、学校給食の調理員であった原告が、公金物である保存食を窃取したというものであるが、窃取の対象物である本件物品は、油揚げ2袋及びパン2個であり・・・、その財産的価値自体は少額であって、その数も比較的少量にとどまる。また、本件非違行為の当時、本件物品4点のうち3点は保存期間が経過しており、その余の1点も保存開始から6日程度経過していたというのであり、それを検査等に使用することが必要となっていたことはうかがわれないから・・・、近い時期に廃棄されることが見込まれていたものと認められる。これらのことからすれば、財産的損害の点から見た本件非違行為の結果は、相当に軽微なものであるといわざるを得ない。」

「他方で、安全な給食を提供する役割を担う学校給食の調理員が保存食を窃取する行為は、必ずしも財産的損害の程度にかかわらず、学校給食の衛生管理の適正な遂行及びこれに対する市民の信頼を損なう結果を生じさせ得るものである。しかしながら、このことを踏まえても、本件非違行為は一回的行為であり、原告が本件非違行為のほかに保存食等を窃取していたことを認めるに足りる的確な証拠もないことに加え、保存食の検査等のための本件物品の使用が現実に必要となったことはうかがわれないことを考慮すると、本件非違行為による公務の遂行及びこれに対する市民の信頼の失墜の程度が重大であるとまではいえない。」

「さらに、上記・・・のとおり、本件非違行為及び本件懲戒免職処分については、市教委の公表に基づく報道がされていることは認められるものの、原告が出勤しなくなかったことによる人員調整等の支障及び本件非違行為による他の調理員の信頼関係の毀損を除くと、本件非違行為により、被告の業務に具体的な支障が生じたことはうかがわれない。」

「これらのことからすると、原告が、保存食を含む公金物の窃取が懲戒免職処分の対象となる行為である旨の注意喚起を受けていたにもかかわらず、明確な窃取の意思の下で、自己中心的な動機に基づいて本件非違行為に及んだものと認められること・・・などの被告指摘の事情を踏まえても、本件非違行為が免職を相当とする程度の非難可能性のある行為と評価することはできないというべきである。」

「本件非違行為は、本件取扱方針にいう『公金又は物品を窃取した』に該当し、その処分の量定の標準例は『免職』と定められている。しかしながら、一般に、窃取行為による財産的損害の多寡は、その非難可能性の程度に影響を及ぼす重要な要素であるところ、本件取扱方針においても、個別の事案の内容によっては、標準例に掲げる量定以外とすることもあり得るとされていることや、免職は懲戒処分の中で最も重い量定であって、本件取扱方針に掲記された各非違行為についてみても、標準例として免職以外の量定が定められているものが少なくないことに照らすと、公金物の窃取に係る上記の標準例は、窃取行為による結果が軽微であることなどにより、処分の量定として免職を選択することが相当でないと評価すべき事情が認められる場合には、免職以外の処分を選択することを想定したものであると解される。上記・・・で検討したとおり、本件非違行為については、財産的損害の点から見た結果が相当に軽微であり、他にその結果や態様等の悪質性について重大視すべき事情は認められないことに照らせば、本件取扱方針の標準例に従って処分の量定として免職を選択することが相当でないと評価すべき事情があるというべきである。このことに加え、上記・・・のとおり、原告が過去に懲戒処分歴を有しておらず、本件非違行為の後に謝罪や反省の態度を示していることなどの各事情を総合的に考慮すれば、原告に対し、免職を選択することは重きに失するものといわざるを得ない。本件懲戒免職処分は、これらの事情を看過してされたものであって、社会通念上著しく妥当を欠き、処分行政庁において、その裁量権の範囲を逸脱したものと認めるのが相当である。」

「したがって、本件懲戒処分は違法である。」

3.標準例の枠内でも取り消されることはある

 本件は報道された事案でもありますが、一般の方は、本件で懲戒免職処分は行き過ぎであり、取り消されるのは当たり前だと思われるかも知れません。

 しかし、弁護士の目からすると、これは決して当たり前ではありません。

 最初に述べたとおり、懲戒処分には処分行政庁の広範な裁量が認められるため、これが違法になることは滅多にありません。標準例から逸脱した重い処分でも違法になりにくいのが実情であり、処分量定が標準例の枠内にある場合に懲戒処分が違法になるのは極めて珍しいことです。

 本件は標準例の枠の中でも懲戒免職処分が違法になることを実証した稀有な例として、実務上参考になります。

 

時間外職能給の固定残業代としての効力が否定された例

1.固定残業代の有効要件

 最二小判令5.3.10労働判例1284-5 熊本総合運輸事件は、固定残業代の有効要件について、

「労働基準法37条は、労働基準法37条等に定められた方法により算定された額を下回らない額の割増賃金を支払うことを義務付けるにとどまり、使用者は、労働者に対し、雇用契約に基づき、上記方法以外の方法により算定された手当を時間外労働等に対する対価として支払うことにより、同条の割増賃金を支払うことができる。そして、使用者が労働者に対して同条の割増賃金を支払ったものといえるためには、通常の労働時間の賃金に当たる部分と同条の割増賃金に当たる部分とを判別することができることが必要である。

「雇用契約において、ある手当が時間外労働等に対する対価として支払われるものとされているか否かは、雇用契約に係る契約書等の記載内容のほか、具体的事案に応じ、使用者の労働者に対する当該手当等に関する説明の内容、労働者の実際の労働時間等の勤務状況などの諸般の事情を考慮して判断すべきである。その判断に際しては、労働基準法37条が時間外労働等を抑制するとともに労働者への補償を実現しようとする趣旨による規定であることを踏まえた上で、当該手当の名称や算定方法だけでなく、当該雇用契約の定める賃金体系全体における当該手当の位置付け等にも留意して検討しなければならないというべきである(以上につき、最高裁平成29年(受)第842号同30年7月19日第一小法廷判決・裁判集民事259号77頁、最高裁同年(受)第908号令和2年3月30日第一小法廷判決・民集74巻3号549頁等参照)。」

と判示しています。

 一番目の赤字部分を対価性要件、二番目の赤字部分は判別要件と呼ばれることもあります。

 この固定残業代の効力について、近時公刊された判例集に興味深い裁判例が掲載されていました。一昨日、昨日とご紹介している、東京地判令6.2.19労働経済判例速報2561-3 ビーラインロジ事件です。何が興味深いのかというと、

時間外職能給

として支給されている賃金項目の固定残業代としての効力が否定されている点です。

 「時間外職能給」は他の賃金と区分けされた賃金項目になります。しかも、「時間外職能給」という名称からは、時間外勤務の対価であることが窺われます。そうであるにもかかわらず、固定残業代としての効力が否定されていることは注目に値します。

2.ビーラインロジ事件

 本件は、いわゆる残業代請求事件です。

 本件で被告になったのは、一般貨物自動車運送事業及び貨物利用運送事業等を営む株式会社です。

 原告になったのは、被告との間で雇用契約を締結し、トラック運転手として働いていた方です。本件では、幾つかの賃金項目(時間外職能給、夜勤・長距離手当、特別手当、特務手当(固定/変動)等)の固定残業代としての効力が問題になりました。

 このうち、時間外職能給について、裁判所は、次のとおり述べて、対価性がないとして、固定残業代としての効力を否定しました。

(裁判所の判断)

「平成25年労働条件通知書には、時間外職能給は時間外、休日又は深夜労働の対価として支給する手当であると記載されており・・・、被告代表者も時間外割増賃金を時間外職能給と時間外割増賃金に割り付けていたと供述している・・・

「もっとも、被告は従業員に対し平成25年労働条件通知書の控えを交付しておらず、従業員がその内容を十分に把握し得たかについては大いに疑問がある。また、平成25年給与体系変更同意書には『時間外職能給は時間外割増としての賃金も含めて支給する手当』と記載されており・・・、時間外職能給の中に時間外割増ではない賃金部分が存在するかのような記載ぶりとなっている。平成27年給与規程31条の『時間外職能給とは、社員個人の能力を考慮し加算される時間外割増、休日割増、深夜割増として支給する手当』(同条1項であって、『能力に応じて加算される労働時間』とは『仕事量の増加に伴う労働時間』及び『その他本人の能力向上に伴って増加する業務量をこなすための時間』である(同条2項)との文言も、時間外職能給の支給要件として業務量の増加など時間外労働の有無以外の事由が要求されているように読める。これらの事情を考慮すると、原告らが、時間外職能給とは一定の時間数までの時間外労働に係る対価を定額で支給されるもの(いわゆる固定残業代)であると認識していたと認めることは困難であって、原告らと被告との間でいわゆる定額残業代として時間外職能給を支給するとの合意が成立していたと認めることも困難である。」

この点を措くとしても、本件では、原告らの給与明細書に記載された時間外労働時間数を前提に算定した時間外割増賃金額と給与明細書の時間外職能給及び普通残業手当の合計額は乖離していることが認められ、時間外職能給が時間外労働の対価として支払われたものであると認めることもできない。一例として検討すると、原告A5の平成28年11月度給与をみると・・・、基礎賃金であることについて当事者間に争いのない①基本給、②勤続給、③職能給/日給月、④職能給/月給、⑤調整給、⑥皆勤手当、⑦愛社手当及び⑧無事故手当に加え、前記の通り基礎賃金と認められる⑩特別手当、⑪夜勤・長距離手当及び⑫特務手当の合計額27万1525円・・・を同月度の所定労働時間176時間(8時間×出勤日数22日)で除すると時間単価は1543円(円以下四捨五入)となるところ、これに給与明細に記載された時間外労働時間数80時間及び時間外労働の割増率1.25を乗じると、平成28年11月度に支給されるべき時間外労働手当額は15万4300円となり、これは同月度の時間外職能給2万円及び普通残業手当8万1200円の合計額10万1200円の1.5倍超となる。そして、本件訴訟において被告が基礎賃金であることを争っていた⑩特別手当、⑪夜勤・長距離手当及び⑫特務手当を基礎賃金から除外して算定してみると、同月度に支払われるべき時間外割増賃金は13万40000円(時間単価1340円(23万5900円÷176時間 円以下四捨五入)×1.25×80時間)となり、時間外職能給及び普通残業手当の合計額の1.3倍となる。さらに、平成29年3月の新給与体系への変更に関する説明会で配布された本件説明資料・・・に倣って、無事故手当を基礎賃金から除外して算定してみると、同月度に支払われるべき時間外割増賃金額は10万5600円(時間単価1056円(18万5900円÷176時間 円以下四捨五入)×1.25×80時間)となり、実際に支給された時間外職能給及び普通残業手当の合計額と近い金額にはなるが、原告A4の平成28年11月度給与について同様に算定すると・・・同月度に支払われるべき時間外割増賃金は5万8375円(時間単価934円(16万4430円÷176時間 円以下四捨五入)×1.25×50時間)となり・・・、実際に支給された時間外職能給2万円及び普通残業手当4万8850円の合計額6万8850円を1万円以上下回ることになる。このような給与明細書に記載された時間外労働時間数を基礎に算定した支給されるべき時間外割増賃金額と実際に支給された時間外職能給及び普通残業手当の不均衡状態は、程度の差はあれ原告らに共通しており、かつ、請求対象期間中の旧給与体系により給与が支給された期間中継続している。

「以上を踏まえると、旧給与体系化における時間外職能給が時間外労働に対する対価として支払われていたとは認められない。」

3.時間外割増賃金額と固定残業代等との乖離

 本件で興味深く思ったのは、

計算して導かれる時間外割増賃金の金額と、

固定残業代を含め給与明細上支払われている割増賃金との金額

の乖離が問題とされている部分です。

 計算上払わなければならない割増賃金の額と、実際に支払われている割増賃金の額とが乖離していた場合、

割増賃金として支払われている金銭は、本当に時間外労働の対価なのか?

という疑問が生じるのは、自然な発想です。

 問題は、どれだけの乖離が認められれば疑義が生じるのかということで、この裁判例は、1.5倍、1.3倍といったレベルの乖離でも問題になることを示しました。

 また、ある労働者の関係では均衡があっても、他の労働者との関係では均衡がない場合、均衡のある労働者との関係でも、固定残業代の効力が問題になることが示されました。つまり、ある労働者は、均衡を失している他の労働者の存在を指摘することで、固定残業代の効力を争えるということです。

 裁判所のこうした判断は、固定残業代の効力を争って行くうえで、実務上、大いに参考になるように思われます。

 

固定残業代の整理-個別同意の効力と就業規則変更の効力との関係性

1.固定残業代

 固定残業代とは、

「時間外労働、休日および深夜労働に対する各割増賃金(残業代)として支払われる、あらかじめ定められた一定の金額」

をいいます(白石哲編著『労働関係訴訟の実務』〔商事法務、第2版、平30〕115頁参照)。

 固定残業代は、一定の要件(判別性、対価性)のもとで残業代の支払としての有効性が認められています。

 しかし、固定残業代は使用者にとって損でしかない仕組みです。

 残業時間が予定された時間に満たなくても固定残業代部分の賃金を支払わなければならない反面、実労働をもとに計算した残業代が固定残業代を上回っている場合には、その差額を労働者に支払わなければならないからです。労働者の労働時間を把握する責務から解放されるわけでもなく、固定残業代の導入には、何のメリットもありません。

 しかも、固定残業代の有効性が否定されると、固定残業代の支払に残業代の弁済としての効力が認められなくなるほか、使用者は固定残業代部分まで基礎単価に組み込んで計算した割増賃金を改めて支払うことになります。このことが使用者側にもたらすダメージは大きく、一般に「残業代のダブルパンチ」(白石哲ほか編著『労働家計訴訟の実務』〔商事法務、第2版、平30〕118頁)などと呼ばれています。

 このように使用者側にとって危険な仕組みであることが周知されてきたためか、最近では、

固定残業代を廃止したり、

ダブルパンチを回避するため、法適合性に欠ける固定残業代の定めを法に適合する形に取り繕ったり

する動きが広がりつつあります。

 この固定残業代の廃止や整理のために使われる方法に、

労働者と個別に同意する方法、

就業規則を変更する方法、

があります。

 労働契約法3条1項が、

「労働契約は、労働者及び使用者が対等の立場における合意に基づいて締結し、又は変更すべきものとする」

と規定しているとおり、労働契約の内容は、労使間の合意によって変更することができます。固定残業代の廃止や整理も労使間の合意によって行うことが可能です。

 また、労働契約法10条1項本文は、

「使用者が就業規則の変更により労働条件を変更する場合において、変更後の就業規則を労働者に周知させ、かつ、就業規則の変更が、労働者の受ける不利益の程度、労働条件の変更の必要性、変更後の就業規則の内容の相当性、労働組合等との交渉の状況その他の就業規則の変更に係る事情に照らして合理的なものであるときは、労働契約の内容である労働条件は、当該変更後の就業規則に定めるところによるものとする」

と規定しています。これは、周知性と合理性を要件に、就業規則の変更によって、使用者が労働条件を一方的に変更することを認める仕組みです。固定残業代は、個別合意に基づかなくても、この就業規則の変更によって廃止、整理することができます。

 このように固定残業代の廃止や整理には、二つのルートがあるのですが、それぞれのルートの関係性はどうなっているのでしょうか?

 より具体的に言えば、個別同意が無効と理解されるような場合でも、就業規則変更によって固定残業代の廃止や整理が有効になるような場合はあるのでしょうか?

 昨日ご紹介した、東京地判令6.2.19労働経済判例速報2561-3 ビーラインロジ事件は、この問題を考えるうえでも参考になる判断を示しています。

2.ビーラインロジ事件

 本件は、いわゆる残業代請求事件です。

 本件で被告になったのは、一般貨物自動車運送事業及び貨物利用運送事業等を営む株式会社です。

 原告になったのは、被告との間で雇用契約を締結し、トラック運転手として働いていた方です。

 被告は、平成29年3月に説明会を実施したうえ、順次、労働者から個別同意を取得し、給与体系を変更しました(旧給与体系⇒新給与体系)。これは、旧給与体系のもと有効性に疑義のあった固定残業代(時間外職能給、夜勤・長距離手当、特別手当、特務手当(固定/変動)等)を整理しようとしたものでした。

 加えて、被告は、平成29年9月1日に旧給与体系を改定する就業規則の変更を行いました。

 本件では、個別合意の効力のほか、就業規則の変更による給与体系の改定の効力が問題になりました。

 裁判所は、次のとおり述べて、個別合意の効力を否定するとともに、就業規則の変更の効力も否定しました。

(裁判所の判断)

・個別合意の効力

旧給与体系の時間外職能給、夜勤・長距離手当、特別手当、特務手当(固定又は変動)及び無事故手当が基礎賃金に含まれることを前提に、平成28年11月度から新給与体系に切り替わるまでの間において、原告らに対し実際に支給された旧給与体系の賃金をベースに基礎賃金(平均額)及び時間単価・・・を算定した結果は下表の『旧』欄に各記載のとおりである。他方で、請求対象期間中に原告らに実際に支給された新給与体系の賃金をベースに定額残業代を除いて基礎賃金(平均額)及び時間単価・・・を算定した結果は次項の表の『新』欄に各記載のとおりであり、旧給与体系と新給与体系を比較すると、時間単価については後者が前者の約69%から約81%の幅で減縮され、基礎賃金(平均)についても前者に比して校舎は約3万円から約7万円の幅で減少していることが認められる。

(中略)

このような基礎賃金及び時間単価の減額幅からすれば、日給月給制から月給制に変更されたこと、基本給が増額されたこと、過去の残業の実情を踏まえて設定した定額残業代がされていることなど原告に有利な変更点を合わせて考慮しても、新給与体系への変更は原告らにとって著しい不利益を含むものであったというべきである。

「被告は・・・新給与体系への変更に関する説明会が実施された時点においても、仮に未払賃金請求訴訟が提起された場合には、時間外職能給、夜勤・長距離手当、特別手当及び特務手当について、裁判所により基礎賃金に含まれる可能性があることを認識し又は認識すべきであったといえる。無事故手当についても、本件訴訟で基礎賃金に含まれることを争っていないこと、元顧問社会保険労務士の見解に従っていたというほかに的確な根拠はなかったことからして同様である。」

そして、新給与体系への変更による不利益が前期のようなものであることを考慮すると、被告従業員が新給与体系の変更について自由な意思に基づいて同意したといえるためには、被告従業員が新給与体系の変更に関する同意に先立って、新給与体系への変更により労働基準法37条等が定める計算方法により時間単価を算定した時間単価が減少するという不利益が発生する可能性があることを認識し得たと認めることができることが必要であったというべきである。しかしながら、本件では、平成25年労働条件通知所の控えは原告らに交付しておらず、新給与体系への変更に関する説明会における説明内容、本件説明会資料の記載は前記のとおり旧給与体系における基礎賃金の範囲すら正確に把握することが困難であったと認められ、原告らが新給与体系の変更に同意した際、時間単価が旧給与体系に比して約69%から約89%の幅で減縮されるという不利益が発生することが認識し得たとは到底認められない。そうすると、原告らが自由な意思に基づいて新給与体系の変更に同意したと認めるに足りる合理的な理由が客観的にあるとは認められない。

「以上によれば、新給与体系が原告らの同意により原告らの労働条件になったものと認めることはできない。」

・就業規則変更の効力

「使用者が就業規則の変更により労働条件を変更する場合において、変更後の就業規則が定める労働条件が労働契約の内容になったと認められるためには、変更後の就業規則を労働者に周知させ、かつ、労働者の受ける不利益の程度、労働条件の変更の必要性、変更後の就業規則の内容の相当性、労働組合等との交渉の状況その他の就業規則の変更に係る事情に照らし、就業規則の変更が合理的なものであると認められる必要がある(労働契約法10条)。」

平成29年給与規程への変更についてみると、分かり易い給与体系に改善する必要性があったことは否定できないが、旧給与体系における時間単価を労働契約法37条等が定める方法により算定した場合には最低賃金法違反の問題は発生せず、この点で新給与体系に変更する必要性があったとは認められない。そして、新給与体系に変更することにより従業員の不利益の内容及び程度は前記・・・で検討したとおり、時間単価が旧給与体系に比して約69%から約81%の幅で減縮するというものであり、新給与体系の変更に関する説明会は実施されているものの、原告らにおいて当該不利益の内容及び程度を十分に把握し得るだけの情報提供が行われたとは認め難い。これらの事情を考慮すると、平成29年給与規程への変更が合理的なものであったとは認められない。

「そうすると、周知性について検討するまでもなく、平成29年給与規程は原告らと被告との労働契約における労働条件になったものとは認められない。」

3.結局、似たような事情が指摘されて、いずれも消極に理解された

 個別同意を規制する法理として、自由な意思の法理があります(最二小判平28.2.19労働判例1136-6山梨県民信用組合事件等参照)。

 この「自由な意思」と「合理(性)」は概念的には異なるものですが、裁判所は、結局、似たような事情を指摘して、いずれも消極に理解しました。

 労働者に必要十分な情報が提供されていないことから自由な意思が否定される場合、同じような情報提供しかないのに就業規則変更は認められるという場面は、なかなか想定しがたいように思われます。

 個別合意と就業規則変更はセットで行われることが多く、本裁判例は、両者の関係性を理解するうえで、実務上参考になります。

 

無効な固定残業代を合意に基づいて整理するためには、労働者に対してどのような説明が必要になるのか?

1.固定残業代

 固定残業代とは、

「時間外労働、休日および深夜労働に対する各割増賃金(残業代)として支払われる、あらかじめ定められた一定の金額」

をいいます(白石哲編著『労働関係訴訟の実務』〔商事法務、第2版、平30〕115頁参照)。

 固定残業代は、一定の要件(判別性、対価性)のもとで残業代の支払としての有効性が認められています。

 しかし、固定残業代は使用者にとって損でしかない仕組みです。

 残業時間が予定された時間に満たなくても固定残業代部分の賃金を支払わなければならない反面、実労働をもとに計算した残業代が固定残業代を上回っている場合には、その差額を労働者に支払わなければならないからです。労働者の労働時間を把握する責務から解放されるわけでもなく、固定残業代の導入には、何のメリットもありません。

 しかも、固定残業代の有効性が否定されると、固定残業代の支払に残業代の弁済としての効力が認められなくなるほか、使用者は固定残業代部分まで基礎単価に組み込んで計算した割増賃金を改めて支払うことになります。このことが使用者側にもたらすダメージは大きく、一般に「残業代のダブルパンチ」(白石哲ほか編著『労働家計訴訟の実務』〔商事法務、第2版、平30〕118頁)などと呼ばれています。

 このように使用者側にとって危険な仕組みであることが周知されてきたためか、最近では、

固定残業代を廃止したり、

ダブルパンチを回避するため、法適合性に欠ける固定残業代の定めを法に適合する形に取り繕ったり

する動きが広がりつつあります。

 それでは、法適合性に欠ける固定残業代の定めについて、労働者の同意を得て法適合性のある形へと定め直そうとした場合、使用者はどのような説明を行う必要があるのでしょうか?

 この問題を考えるにあたっては、最二小判平28.2.19労働判例1136-6山梨県民信用組合事件が、

「使用者が提示した労働条件の変更が賃金や退職金に関するものである場合には、当該変更を受け入れる旨の労働者の行為があるとしても、労働者が使用者に使用されてその指揮命令に服すべき立場に置かれており、自らの意思決定の基礎となる情報を収集する能力にも限界があることに照らせば、当該行為をもって直ちに労働者の同意があったものとみるのは相当でなく、当該変更に対する労働者の同意の有無についての判断は慎重にされるべきである。そうすると、就業規則に定められた賃金や退職金に関する労働条件の変更に対する労働者の同意の有無については、当該変更を受け入れる旨の労働者の行為の有無だけでなく、当該変更により労働者にもたらされる不利益の内容及び程度、労働者により当該行為がされるに至った経緯及びその態様、当該行為に先立つ労働者への情報提供又は説明の内容等に照らして、当該行為が労働者の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点からも、判断されるべきものと解するのが相当である(最高裁昭和44年(オ)第1073号同48年1月19日第二小法廷判決・民集27巻1号27頁、最高裁昭和63年(オ)第4号平成2年11月26日第二小法廷判決・民集44巻8号1085頁等参照)。」

と判示していることとの関係を考える必要があります。

 形だけの同意であれば効力を覆すことができるため、形だけでない自由な意思に基づいてなされた同意がなされたといえるためには、どのような情報提供、説明をしなければならないのかが問題になります。

 近時公刊された判例集に、この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が掲載されていました。東京地判令6.2.19労働経済判例速報2561-3 ビーラインロジ事件です。

2.ビーラインロジ事件

 本件は、いわゆる残業代請求事件です。

 本件で被告になったのは、一般貨物自動車運送事業及び貨物利用運送事業等を営む株式会社です。

 原告になったのは、被告との間で雇用契約を締結し、トラック運転手として働いていた方です。

 被告は、平成29年3月に説明会を実施したうえ、順次、労働者から個別同意を取得し、給与体系を変更したのですが(旧給与体系⇒新給与体系)、本件では、この個別同意の効力が争点の一つになりました。問題になったのは、旧給与体系のもと有効性に疑義のあった固定残業代の整理が伴われていたからです。固定残業代(時間外職能給、夜勤・長距離手当、特別手当、特務手当(固定/変動)等)が無効であることを前提とすると、手当や基本給の削減を伴う労働者に不利益な労働条件の変更になるところ、自由な意思に基づく同意があったとはいえないというのが、労働者側の主張の骨子です。

 この論点について、裁判所は、次の通り述べて、給与体系の変更についての個別同意の効力を否定しました。

(裁判所の判断)

旧給与体系の時間外職能給、夜勤・長距離手当、特別手当、特務手当(固定又は変動)及び無事故手当が基礎賃金に含まれることを前提に、平成28年11月度から新給与体系に切り替わるまでの間において、原告らに対し実際に支給された旧給与体系の賃金をベースに基礎賃金(平均額)及び時間単価・・・を算定した結果は下表の『旧』欄に各記載のとおりである。他方で、請求対象期間中に原告らに実際に支給された新給与体系の賃金をベースに定額残業代を除いて基礎賃金(平均額)及び時間単価・・・を算定した結果は次項の表の『新』欄に各記載のとおりであり、旧給与体系と新給与体系を比較すると、時間単価については後者が前者の約69%から約81%の幅で減縮され、基礎賃金(平均)についても前者に比して校舎は約3万円から約7万円の幅で減少していることが認められる。」

(中略)

「このような基礎賃金及び時間単価の減額幅からすれば、日給月給制から月給制に変更されたこと、基本給が増額されたこと、過去の残業の実情を踏まえて設定した定額残業代がされていることなど原告に有利な変更点を合わせて考慮しても、新給与体系への変更は原告らにとって著しい不利益を含むものであったというべきである。

被告は・・・新給与体系への変更に関する説明会が実施された時点においても、仮に未払賃金請求訴訟が提起された場合には、時間外職能給、夜勤・長距離手当、特別手当及び特務手当について、裁判所により基礎賃金に含まれる可能性があることを認識し又は認識すべきであったといえる。無事故手当についても、本件訴訟で基礎賃金に含まれることを争っていないこと、元顧問社会保険労務士の見解に従っていたというほかに的確な根拠はなかったことからして同様である。」

「そして、新給与体系への変更による不利益が前期のようなものであることを考慮すると、被告従業員が新給与体系の変更について自由な意思に基づいて同意したといえるためには、被告従業員が新給与体系の変更に関する同意に先立って、新給与体系への変更により労働基準法37条等が定める計算方法により時間単価を算定した時間単価が減少するという不利益が発生する可能性があることを認識し得たと認めることができることが必要であったというべきである。しかしながら、本件では、平成25年労働条件通知所の控えは原告らに交付しておらず、新給与体系への変更に関する説明会における説明内容、本件説明会資料の記載は前記のとおり旧給与体系における基礎賃金の範囲すら正確に把握することが困難であったと認められ、原告らが新給与体系の変更に同意した際、時間単価が旧給与体系に比して約69%から約89%の幅で減縮されるという不利益が発生することが認識し得たとは到底認められない。そうすると、原告らが自由な意思に基づいて新給与体系の変更に同意したと認めるに足りる合理的な理由が客観的にあるとは認められない。

「以上によれば、新給与体系が原告らの同意により原告らの労働条件になったものと認めることはできない。」

3.固定残業代が無効であることを前提とした説明が必要か?

 上述のとおり、裁判所は、

固定残業代が無効であることを前提とした旧給与体系の基礎賃金と、

固定残業代が有効であることを前提とした新給与体系の基礎賃金と

を比較し、時間単価が減っているから労働条件の不利益変更だと判示しました。

 そのうえで、

被告は固定残業代が無効であることを認識し得たはずである、

訴訟提起された場合に、固定残業代が(残業代の弁済としての効力が認められず)基礎賃金に含まれる可能性があったことも認識し得たはずである、

裁判所が判断する基礎賃金をベースにすれば、時間単価が減少することまで説明していなければ、従業員が給与体系の変更の意味を認識し得たとはいえない、

ゆえに、個別同意は労働者の自由な意思に基づいているとはいえない、

というロジックのもと、個別同意の効力を否定しました。

 従前の固定残業代が無効であることをきちんと説明してしまうと、当然のことながら、労働者からの訴訟提起が予想されます。場合によっては、集団訴訟に発展しかねません。訴訟提起されないまでも、労働基準監督署に駆け込まれ、未払割増賃金の支払を指導されるかもしれません。

 こうした懸念があるため、固定残業代を整理は、大抵の場合、曖昧な説明のもとで行われます。本件も、そうした事案の一つとして位置づけられます。

 しかし、裁判所は、誤魔化しが入った説明ではダメだと判示しました。

 過去にもかなり厳しめの要求をした裁判例が言い渡されていましたが、

無効な固定残業代を合意に基づいて有効にするためには、労働者に対してどのような説明が必要になるのか? - 弁護士 師子角允彬のブログ

これと軌を一にするものといえそうです。

 意味がないのに何故流行ったのかは分かりませんが、一昔前に固定残業代がやたら流行った反動で、現在、固定残業代の整理・廃止が行われることは少なくありません。

 本裁判例は、こうした場面で積極的に活用して行くことが考えられます。

 

様々な業務を行わせていたにもかかわらず、賃金の支払を請求されるや連絡を絶った行為が不法行為に該当するとされた例

1.賃金の支払義務

 労働基準法24条1項は、

「賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。」

と規定しています。

 単純な債務不履行が犯罪とならないのに対し、賃金の不払いは労働基準法120条1号により、30万円以下の罰金に処せられる犯罪とされています。

 ただ、犯罪に該当することと、当該行為が民事上の損害賠償責任を生じさせることとは別の問題です。

 例えば、賃金不払いの場合、賃金が支払われれば損害は填補されるのであり、慰謝料を発生させる原因にまではならないという理解も成り立ちます。実際、違法解雇を理由に慰謝料を請求する局面では、地位が確認され、バックペイ(未払賃金)の支払を受けられれば自動的に精神的苦痛は慰謝されるとして、慰謝料の請求を棄却する裁判例は、多く見られます。

 しかし、近時公刊された判例集に、賃金の不払いに不法行為該当性を認めた裁判例が掲載されていました。一昨日、昨日とご紹介している、東京地判令6.2.28労働判例ジャーナル151-44 小野寺事件です。

2.小野寺事件

 本件で被告になったのは、とび・土工・コンクリート工事等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、令和2年4月24日に被告との間で契約を締結し、鍵交換、看板製作、パンフレット製作等の業務に従事してきた方です。原告は、この契約が労働契約であると主張し、未払賃金や割増賃金、休業手当、付加金、立替費用などを請求する訴えを提起しました。

 原告の請求は、上述のように多岐に渡っていたのですが、その中の一つに、不法行為に基づく損害賠償請求がありました。

 損害賠償関係での原告の主張は、次のとおりです。

(原告の主張)

「被告は、令和2年8月13日以降、一方的に原告との連絡を絶ち、放置し続けたところ、これは不法行為に当たる。」

「原告は、上記・・・の被告の行為により精神的苦痛を負い、新しく就職する機会を奪われた。これらの事情を考慮すると、被告は、原告に対し、118万6284円の損害賠償義務を負う。」

 ここでいう「連絡を絶ち」というのは、賃金請求を無視、放置し続けたことを意味しています。

 原告の請求について、裁判所は、次のとおり述べて、請求を一部認容しました。

(裁判所の判断)

「Cは、令和2年3月頃までに、被告から、被告の企画・事業本部部長という肩書を付した名刺を使うことを許可され、また、時期や期間は定かではないが、被告の社会保険に加入した。」

(中略)

「原告は、Cに対し、令和2年6月13日、本件鍵交換及び本件看板製作に係る請求書をそれぞれ送付し、同年7月13日、本件鍵交換及び本件看板製作に加え、本件名刺作成及び原告の作業費(基本給)に係る請求書をそれぞれ送付したところ、Cは、同月16日、原告に対し、『昨日入金できず今日午後から振込をするそうです。』などとメッセージを送った。」

「同日、原告口座に、被告から本件鍵交換に係る費用が振り込まれたが、その余の費用は振り込まれなかった。」

「原告は、令和2年8月11日、被告本社事務所において、Cに対し、賃金等の支払を催促したところ、Cから請求書を被告の仕様に沿うように作成し直すよう指示され、同月13日、原告の作業費(基本給)、本件鍵交換、本件パンフレット製作、本件看板製作及び本件名刺作成に係る各請求書を改めて作成し、Cに対し、これらを送付した。しかし、被告からの支払は得られなかった。」

「原告は、同日以降、Cと連絡がとれなくなり、Cの指示に従った作業を行っていない。」

「原告は、被告に対し、令和3年8月30日付けの内容証明郵便を送付して、原告の作業費(基本給)、交通費、本件パンフレット製作、本件看板製作、本件USBメモリ交付及び本件名刺作成に係る各費用を請求した。同内容証明郵便は同年9月4日に被告に到達したが、被告は請求に応じなかった。」

「原告は、令和3年9月6日、Cに対し、前記・・・の内容証明郵便と同じ内容の文書等をメールで送付したところ、Cは、同月7日、原告に対し、『Dの作業であり、小野寺で雇用した覚えは一切ありません。』、『一方的な請求内容で承認出来ません。』などと返信した。」

(中略)

Cは、本件請求期間において、原告に指示し、様々な業務を行わせていたにもかかわらず・・・、令和2年8月13日に原告がCの指示に従い作り直した請求書を送付して以降、突如として、原告の連絡に応答しなくなったものであり・・・、原告への連絡を妨げる事情も見当たらないことを踏まえると、原告との連絡を絶つというCの行動は、違法に原告の権利又は法律上保護された利益を侵害するものとして、不法行為を構成すると認められる。

原告は、Cから連絡を絶たれ、Cの指示に従って業務を継続できなくなったことにより、合理的に再就職が可能と考えられるまでの間、本来業務を継続していれば得られたはずの賃金相当額の損害を受けたものということができ、その期間は、原告の年齢、健康状態及び本件訴訟に至る経緯等を考慮すると、Cが連絡を絶ってから3か月間の範囲に限るとするのが相当である。

「そして、本件においては、前記・・・で説示したとおり、就労日数についての保証があったとはいえないが、別紙『原告時間シート』によると、原告は令和2年5月から同年7月までの間に合計237時間(本件請求期間における原告実労働時間合計273.5時間から同年4月の実労働時間である25.5時間と同年8月の実労働時間である11時間を除いたもの)就労しており、Cが連絡を絶たなければ、少なくとも月平均79時間(=237時間÷3)の就労は可能であったと認められるから、損害額は、39万1050円(=時給1650円×79時間×3)をもって相当というべきである。」

「また、原告は、Cから連絡を絶たれたことにより、未払賃金等の支払を受けられないまま、業務を継続することもできなくなり、精神的な損害を被ったものと認められ、これを慰謝するには30万円をもって相当と認める。

3.逸失利益、推計計算、慰謝料が認められた

 裁判所の判断の特徴は、不法行為該当性を認めたこともさることながら、

逸失利益、推計計算、慰謝料

のトリプルコンボを決めたところにあります。

 賃金の不払いですから、賃金請求が認められれば損害がなくなるという判断もあったのではないかと思います。しかし、裁判所は、そういう形式的な判断はしませんでした。先ず、これが注目に値します。

 続けて、裁判所は、逸失利益、慰謝料双方の請求を認めました。

 逸失利益の認定を行うにあたっては、就労日数についての保証のある労働契約であるはないとしながらも、推計計算を行いました。裁判所は、推計計算に対して、これを容易には認めない傾向にあります。今回、推計計算によって逸失利益が認定されたことは、画期的な判断だと思います。

 それだけではなく、慰謝料として30万円の損害まで計上しました。ハラスメント慰謝料の相場観と対比して考えると、結構な金額だと思います。

 請求額と弁護士費用との兼ね合いや、回収可能性(相手方の資力等)の問題で裁判に至らなにいことも結構多いのですが、働かせるだけ働かせ、賃金を支払う段になると行方不明・音信普通になる使用者は、法律相談レベルでは結構目にします。

 そうした会社に責任を追及して行くにあたり、裁判所の判断は参考になります。