弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

試用期間満了前の能力不足を理由とする解雇-この場合の能力不足はどの時点の能力を指すのか?

1.試用期間前の解雇

 試用期間の法的性質には幾つかの理解の仕方があり得ますが、解約留保権付雇用契約と理解される場合が多いのではないかと思います。

 この留保解約権(解雇権)の行使時期について言うと、試用期間満了前に行使することが禁止されているわけではありません。ただ、労働者の適性の有無は試用期間中の全期間を見たうえで判断されるべきとの考え方のもと、より高度の合理性と相当性が求められることはあります(第二東京弁護士会労働問題検討委員会編『労働事件ハンドブック』〔労働開発研究会、2023年改訂版、令6〕69頁参照)。

 近時公刊された判例集にも、この系譜に属すると思われる裁判例が掲載されていました。東京地判令5.12.1労働経済判例速報2556-23 R&L事件です。

2.R&L事件

 本件で被告になったのは、太陽熱電池等の輸出入、販売、施工、修理及びコンサルティング業務等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、ペルー共和国から来日した男性です。被告と期間1年の有期雇用契約を交わし、プロジェクトマネージャーとして勤務していた方です。

 試用期間3か月で令和3年10月25日から勤務を開始したところ、試用期間満了前である令和3年11月25日に「業務を円滑に遂行するための日本語によるコミュニケーションが取れない」ことなどを理由に解雇されました。これを受けて、解雇無効を主張し、未払賃金等を請求する訴えを提起したのが本件です。

 この事件で裁判所は、解雇は無効であるとして、原告の請求を大筋において認めました。目を引かれるのは、その中で、次のような判断が示されていることです。

(裁判所の判断)

「仮に原告の日本語能力に十分ではない部分があったとしても、原告が、日本語教育研究所の評価する日本語能力を有し、かつ、被告の提供する週1回の日本語教室に通うなどの意欲を示していたことからすれば、上記試用期間3か月のうち約1か月が経過した11月25日の時点で、試用期間が満了する令和4年1月24日の時点において本件雇用契約で前提とされていた上記・・・『中級』の日本語能力を有さないことが見込まれる状態にあったとは認められない。

(中略)

「労働者の資質等を調査するための期間である試用期間3か月のうち約1か月が経過した11月25日の時点で、試用期間が満了する令和4年1月24日の時点においても本件雇用契約において想定されていた専門的知識を欠くことが見込まれる状況にあったとも認められない。

(中略)

「労働者の資質等を調査するための期間である試用期間3か月のうち約1か月が経過した11月25日の時点で、令和4年1月24日の時点においても原告の被告の業務に関する意欲の欠如が見込まれる状況にあったとも認められない。

3.能力は使用期間満了までにカバーされていればいい?

 上述のとおり、裁判所は、試用期間の満了時において日本語能力、専門的知識、意欲の欠如が見込まれる状況にあったとは認められないとして、留保解約権(解雇権)の行使を否定しました。

 試用期間の満了時を基準に解雇事由の有無を判断することが明確に示された例は、あまり目にすることがなく、画期的な判断ではないかと思います。裁判所の判旨は、未経験者可の仕事に応募して試用期間途中で能力不足を理由に留保解約権を行使された事例などにも広く応用できる可能性があり、実務上参考になります。

 

死亡逸失利益の基礎収入の認定にあたり、将来の昇給が考慮された例

1.基礎収入の認定

 現行法上、死亡逸失利益は、次のとおり計算されます。

基礎収入 ✖ (1-生活費控除率) ✖ 就労可能年数のライプニッツ係数

 ここで言う基礎収入については、後遺症逸失利益の基礎収入と同じように理解されます。具体的には、

「実収入額によるのが原則であるが、休業損害とは異なって、将来の長期間にわたる所得の問題であるため、必ずしも事故当時の収入額によるのが相当ではない場合もある」

と理解されています(大島眞一『交通事故事件の実務-裁判官の視点-』〔新日本法規出版、初版、令2〕68頁、86頁)。

 要するに、

事故当時の実収入額が原則

何か例外的な事情がある場合には、事故(被災)当時の収入額とは別の額を用いる

ということです。

 実収入以外の金額が基礎収入に認定されることはあまりないのですが、近時公刊された判例集に、将来の昇給が考慮されたうえで基礎収入が認定された裁判例が掲載されていました。札幌地裁令6.4.15労働経済判例速報2556-17 国(陸上自衛隊)事件です。

2.国(陸上自衛隊)事件

 本件は、いわゆる労災(公務災害)民訴の事案です。

 原告になったのは、陸上自衛隊員であったBの父母です。パワーハラスメントを受けたことによりBが自死を余儀なくされたとして、国を相手取って、損害賠償を請求したのが本件です。原告らは遺族補償一時金(国家公務員災害補償法17条の4)を受給していますが、これはパワーハラスメントと自死との間に公務起因性が認められたからだと思われます。

 本件ではBの死亡逸失利益の基礎収入をどのように認定するのかが争点の一つになりましたが、裁判所は、次のとおり判示しました。

(裁判所の判断)

本件自死前年である令和元年度のBの給与収入は694万3892円であること、Bは、死亡時27歳の防衛大学校を卒業した幹部自衛官候補であり、少なくとも2等陸佐又は3等陸佐まで昇進する見込みがあったことは、当事者間に争いがない。加えて、公務員の年収は、一般に勤務年数に応じて上昇するものであるところ、Bの年収も本件自死に至るまで年々増加していたこと・・・、賃金センサス令和2年第1巻第1表におれば、男性労働者大学卒の25歳ないし29歳の平均年収は440万4900円であるのに対し、その全年齢の平均年収は637万9300円(25歳ないし29歳の平均年収の約1.45倍)であること、自衛隊鳥取地方協力本部のホームページには、年々着実に昇給し、40代に入る頃には幹部自衛官(大卒程度)であれば900万円程度には昇給する旨及び給与例として、幹部自衛官の年収を35歳で約730万円、40歳で約870万円、45歳で約900万円、50歳で約980万円とする旨の記載があり・・・、これらの記載は自衛隊内部の実情を反映したものであるとみられることを併せて考慮すれば、Bは、2佐及び3佐の現在の定年年齢である56歳・・・までは、原告らの主張する870万円の年収を得られた蓋然性があると認められる。

「他方、Bが1等陸佐まで昇進した蓋然性があったことを認めるに足りる証拠はなく、令和3年度再就職後の平均年収が2佐について578万円であること・・・に照らせば、57歳以降については、原告らの主張する870万円の年収を得られたと認めることはできず、令和3年度再就職後の2佐の平均年収578万円を基礎収入として逸失利益を算定するのが相当である。」

3.再び札幌地裁

 札幌地裁では、今年2月にも、昇給を考慮に入れて死亡逸失利益の基礎収入を認定した判決が言い渡されています。

労災民訴(公務災害民訴)で死亡逸失利益の基礎収入が死亡者と同等又は上位にあった行政職員の給与平均額とされた例 - 弁護士 師子角允彬のブログ

 本裁判例は、これに続く事案であり、今後、被害者が公務員(遺族)である場合の損害賠償請求について一定の流れが作り出されて行くのか、裁判例の動向が注目されます。

 

辞意を表明した労働者に対する支払督促の申立が不法行為に該当するとされた例

1.支払督促

 支払督促とは、

「貸したり立て替えたりしたお金や家賃、賃金などを相手方が支払わない場合に、申立人側の申立てのみに基づいて、簡易裁判所の書記官が相手方に支払いを命じる略式の手続」

を言います。

「お金を払ってもらえない」とお困りの方へ 簡易裁判所の「支払督促」手続をご存じですか? | 政府広報オンライン

 相手方からの異議の申立てがない場合、判決と同様の効力を持ち、強制執行をすることが可能になります。

 この支払督促との関係で、近時公刊された判例集に興味深い裁判例が掲載されていました。昨日もご紹介した、東京地判令6.2.28労働判例ジャーナル150-16 リンクスタッフ事件です。何が興味深いのかというと、辞意を表明した労働者に対する支払督促の申立に不法行為法上の違法性が認められたことです。

2.リンクスタッフ事件

 本件で被告になったのは、

職業安定法に基づく有業職業紹介事業、労働者派遣事業等を目的とする株式会社(被告会社)、

被告会社の代表取締役(被告B)

の二名です。

 原告になったのは、バングラディッシュ国籍の男性で、被告会社において日本語教育を受ける傍ら、システムエンジニアとして勤務していた方です。

 退職の意思を示したところ、退職を強行した場合には原告及びその両親等に対し少なくとも500万円以上の損害賠償を請求するなど記載された通知書を示されました。このほか、業務上必要な物品の購入費用として原告に10万円を交付したところ、当該物品を購入する必要がなくなったにもかかわらず、10万円を返還しないとの理由で、被告から支払督促の申立を受けました。

 本件の原告は、こうした行為の違法性を主張して、被告会社には使用者責任を、被告Bには会社法429条に規定されている任務懈怠責任を根拠に、損害賠償を請求しました。本日のテーマである支払督促との関係で言うと、原告は、

「被告B及び被告会社従業員らは、原告を被告会社の寮の鍵を返還させた後、これを奇貨として内容虚偽の本件支払督促申立て及び本件仮執行宣言申立てを行い、東京簡易裁判所をして支払督促及び仮執行宣言付き支払督促を発令させるなどしており、このような一連の行為は、裁判所を欺き、司法制度を悪用し、日本の法制度に通じていない外国籍の元従業員を畏怖させるものであり、不法行為法上違法である。」

と主張しました。

 これに対し、裁判所は、次のとおり述べて、支払督促の申立の違法性を認めました。

(裁判所の判断)

「督促手続は、債権者が、債務者に対し、簡易裁判所の裁判所書記官に対して支払督促を申し立て、債務者にその債権の履行を求める手続であり、その申立てには訴えに関する規定が準用され(民事訴訟法384条)、申立てが一定の事由によって却下されない限り、支払督促が発付され(同法385条)、債務者が督促異議の申立てをしない場合には仮執行の宣言が付され(同法391条)、仮執行の宣言を付した支払督促に対し督促異議の申立てがないとき又は督促異議の申立てを却下する決定が確定した場合には支払督促は確定判決と同一の効力を有し(同法396条)、督促異議の申立てがされた場合には支払督促の申立ての時に訴えの提起があったとみなされる(同法395条)など、訴えの提起をもって始まる通常の民事訴訟手続に準ずる手続である。このような督促手続の性質をからすれば、支払督促の申立てが不法行為に当たるか否かについては、民事訴訟における訴えの提起の場合に準じて検討するべきであり、支払督促の申立てが債務者に対する違法な行為といえるのは、当該申立てにおいて債権者の主張した権利又は法律関係が事実的、法律的根拠を欠くものである上、債権者が、そのことを知りながら又は通常人であれば容易にそのことを知り得たといえるのにあえて申立てをしたなど、支払督促の申立てが裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くと認められるときに限られるものと解するのが相当である。

前提事実・・・のとおり、被告会社は、実際には原告が業務上必要な物品の購入費用として交付した10万円を返却しないという事実は存在しないことを認識しながら、当該事実を理由とする本件支払督促申立てを行ったばかりか、全部認容の支払督促の発付を受けて本件仮執行宣言申立てを行っていることからすれば、被告会社は、本件支払督促申立てにおいて主張した権利が事実的、法律的根拠を欠くものであることを認識していたと認められる。

「この点に関し、被告らは、原告と連絡を取る手段としてやむを得ず本件支払督促申立てを行ったものであり、原告から金銭支払を受ける意図はなく、原告の連絡先が判明した時点で取り下げる予定であったし、現に原告代理人弁護士の連絡先判明後には本件支払督促申立てを取り下げており、原告に実害は生じていないことからすれば、被告会社が本件支払督促申立て及び本件仮執行宣言申立てを行ったことは違法とまではいえないと主張する。しかしながら、被告会社は、原告が住居としていた社宅の鍵を返却させた以降、原告が当該社宅に居住していないことを認識しながら、当該社宅を送達先として本件支払督促申立てを行ったものであり、原告が原告代理人弁護士に委任して本件督促異議申立てをすることができたのは、郵便物の転送手続を取ったことにより、前住所地である被告会社の社宅宛てに送達された本件仮執行宣言付き支払督促正本を受領することができたからに過ぎず、原告が本件仮執行宣言付き支払督促正本に気づかぬまま、被告会社が原告に対する債務名義を取得していた可能性も十分にあったことからすると、原告と連絡を取る手段としてやむを得ず本件支払督促申立てを行ったという被告らの主張は採用できない。また、仮に原告と連絡を取る目的を有していたとしても、そのような目的のために虚偽の事実に基づく支払督促の申立てをすることは、支払督促制度の趣旨に照らして著しく相当性を欠き、違法である。また、原告は事実に反する本件仮執行宣言付き支払督促正本の送達を受け、弁護士に依頼するなどの相応の負担を強いられていること等からすれば、被告会社が原告の督促異議の申立て後に本件支払督促申立てを取下げたとしても、本件支払督促申立て及び本件仮執行宣言申立てが違法であることは変わらない。」

「原告は、被告B及び被告会社従業員らが意を通じて本件支払督促申立て及び本件仮執行宣言申立てを行ったと主張するところ、被告Bの令和5年9月20日付け陳述書・・・には『私の知らないところでDらが、東京簡易裁判所に支払督促の申立てを行っていたようでした。』との記載がある。」

「しかしながら、Dらが独断で本件支払督促申立て等を行う合理的理由は見当たらず、被告Bの意を受けた従業員が本件支払督促申立て及び本件仮執行宣言申立てを行ったとみるのが合理的である。本件支払督促申立書・・・には被告Bの代表者印ではなく社印が押印されていることが認められるが,当該事実から被告Bが本件支払督促申立てを知らなかったことを裏付けるとはいえないこと、原告は本件訴訟を提起した令和3年11月22日時点から一貫して被告会社及び被告Bの本件支払督促申立て等に関する損害賠償責任を主張していたが、被告Bは、前記陳述書を提出するまで本件支払督促申立てを当初知らなかったなどと主張したことはないことに加え、令和5年11月1日に予定されていた尋問を合理的な理由なく欠席したことを考慮すれば、被告Bの前記陳述書の内容は信用性を欠くというほかない。」

「したがって、被告B及び被告従業員は、意を通じて、本件支払督促申立て及び本件仮執行宣言申立てを行ったものと認められる。」

3.本気で請求するつもりではなかったと言うが・・・

 支払督促に関しては、架空請求のために悪用されることが多く、何度となく公的機関から注意喚起がなされています。

法務省:督促手続・少額訴訟手続を悪用した架空請求にご注意ください

裁判所の手続を悪用した架空請求等にご注意ください。 | 裁判所

「利用した覚えのない請求(架空請求)」が横行しています(テーマ別特集)_国民生活センター

 こうした架空請求に対し、不当請求であるとして裁判所で請求者の法的責任を問題にすると、大体「本気で請求するつもりではなかった」といった系統の弁解が出て来ます。本件の被告らも、

「原告と連絡を取る手段としてやむを得ず本件支払督促申立てを行ったものであり、原告から金銭支払を受ける意図はなく、原告の連絡先が判明した時点で取り下げる予定であった」

などと主張していましたが、裁判所は、そうした目的で支払督促を使うこと自体、支払督促制度の趣旨に照らして著しく相当性を欠き、違法であると判示しました。

 裁判所の判断は、不当請求を行った者の弁解を排斥するにあたり、実務上参考になります。

 

退職妨害(根拠のない高額の損害賠償請求の示唆)に不法行為法上の違法性が認められた例

1.退職妨害と慰謝料

 人材不足の世相を反映してか、退職の妨害が行われることがあります。

 妨害の方法は、様々な方法がありますが、近時、不法行為法上の違法性が認められるほど不適切なものが散見されるようになっています。このブログでも行き過ぎた言動に違法性が認められた例を紹介させて頂いたことがあります。

退職者への行き過ぎた慰留に不法行為該当性が認められた例 - 弁護士 師子角允彬のブログ

退職者を引きとどめる言動「逃げるのか」に違法性が認められた例 - 弁護士 師子角允彬のブログ

 上記は発言の事案ですが、近時公刊された判例集に、根拠のない高額の損害賠償請求を示唆するタイプの退職妨害に不法行為法上の違法性が認められた裁判例が掲載されていました。東京地判令6.2.28労働判例ジャーナル150-16 リンクスタッフ事件です。

2.リンクスタッフ事件

 本件で被告になったのは、

職業安定法に基づく有業職業紹介事業、労働者派遣事業等を目的とする株式会社(被告会社)、

被告会社の代表取締役(被告B)

の二名です。

 原告になったのは、バングラディッシュ国籍の男性で、被告会社において日本語教育を受ける傍ら、システムエンジニアとして勤務していた方です。

 退職の意思を示したところ、退職を強行した場合には原告及びその両親等に対し少なくとも500万円以上の損害賠償を請求するなど記載された通知書を示して脅迫されたなどとして、使用者責任等を理由に損害賠償を請求しました。

 これに対し、裁判所は、次のとおり判示して、被告の責任を認めました。

(裁判所の判断)

「被告会社従業員のG及びHは、同月21日午後3時30分頃、原告を一室に呼び出したうえ、原告に対し、引継ぎ等の問題もあり、原告の退職の申出を認める考えはなく、原告が退職又はこれに類する欠勤を強行するなどした場合には、原告、原告の両親、原告の退職騒動に加担した個人及び法人に対し500万円の損害賠償を請求する旨が記載された通知書(以下『本件通知書』という。)を提示し、ベンガル語が堪能な従業員による説明も行った上、本件通知書の受領及び本件通知書に関する受領証(以下『本件受領書』という。)に署名することを求めた。原告は、L社のQ若しくはL社の関連会社であるMのR又はSに架電し、被告会社から本件通知書の受領及び本件受領書への署名を求められていることを相談し、被告会社からの求めを拒否すべきであるとの助言を受け、本件通知書の受領及び本件受領書への署名を拒否した。G及びHらは、原告に対し、繰り返し署名するよう求めたが、原告はこれを拒否し、外部の友人を呼ぶことについてGらの同意を得た上、Q、R及びSを呼ぶとともに、監禁されているとして110番通報をして警察に助けを求めた。」

「Q、R及びSは、同日午後5時30分頃に被告会社に来訪し、被告N及びDも話合いに加わった。被告Nらは、Q、R及びSの名刺により同人らが人材派遣業者であるL社及びその関連会社の人物であることを知り、原告がL社を介して被告会社の競業他社に転職しようとしているとの疑いを強めた。しばらくして赤坂署の警察官が被告会社を訪問したが、原告に対し弁護士に相談するよう告げ、Qらとともに被告会社から退所した。」

「その後、Dらは、原告に対し、本件通知書の受領及び本件受領書への署名を求めたが、原告は頑なにこれを拒否し、Rらに電話で相談する等し、Dらに対し帰りたいと伝えたが、Dらは原告の帰宅を認めると二度と来社しない可能性があると考え、原告の帰宅を認めず、本件通知書の受領及び本件受領書への署名を求め続け、社員寮の鍵の返還を求め、その返還を受けた。そうしたところ、原告が再度110番通報し、臨場した警察官のとりなしにより、原告が、本件受領書の空欄部分に『翌週月曜日の令和3年5月24日に、弁護士と一緒に会社を訪れる』旨を被告会社と約束し、その旨を本件受領書に英語で記載し、カタカナで署名するとともに、一緒に被告会社を訪問する弁護士を見つけることができなかったときは原告が被告会社に出社して本件受領書にサインすることを口頭で約束し、午後8時30分頃、その日の話合いは終了した。」

(中略)

「使用者は、その雇用する労働者から退職の意思表示がされた場合であっても、社会通念上相当な方法により、当該労働者に慰留を求めることは許されるが、暴行、強迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段を用いるなどした場合には、労働者の退職の自由を不当に制限し、人格権を侵害するものとして違法となり得ると解される。」

認定事実によれば、被告B及び被告会社従業員らは、同月21日、原告を被告会社の一室に呼出し、同日午後3時30分頃から午後8時30分頃まで、原告に対し、本件通知書の受領及び本件受領書へのサインを繰り返し求めたことが認められる。本件通知書には、引継ぎ等の問題もあり、原告の退職の申出を認める考えはなく、原告が退職又はこれに類する欠勤を強行するなどした場合には、原告、原告の両親、原告の退職騒動に加担した個人及び法人に対し500万円の損害賠償を請求する旨が記載されており、その内容は、一般的には、労働者及び両親等が被告会社から少なくとも500万円の損害賠償請求を受けるリスクを回避するために退職を思い止まらせる効果を一定程度有するものであると認められる。そして、原告が令和3年5月31日に退職した場合に発生することが見込まれるという少なくとも500万円の損害の内訳や根拠についての説明はなく、不明というほかない。これらの事実によれば、被告会社が原告に対し約5時間にわたり繰り返し本件通知書の受領及び本件受領書へのサインを求めた行為は、原告に対し、原告が当初希望した退職日に退職した場合には、原告及び両親等に対し、合理的な根拠のない高額の損害賠償請求をすることを示し、退職を翻意させようとしたものであり、原告の退職の自由を不当に制限するおそれがある不相当な手段であったと認められる。

(中略)

「本件の一切の事情を考慮すると、被告会社が本件通知書の受領及び本件受領書へのサインを繰り返し求めた行為及び被告会社従業員が原告から社宅の鍵を返還させた行為よる精神的苦痛を慰藉するために相当な慰謝料額は15万円と認めるのが相当である。」

(中略)

「以上によれば、被告会社は不法行為(民法709条)又は使用者責任(民法715条1項)に基づき、被告Bは会社法429条1項に基づき、連帯して、原告に対し、慰謝料及び弁護士費用合計17万6000円を支払う義務を負う。」

3.損害賠償請求を示唆するタイプの退職妨害に立ち向かうために

 高額の損害賠償を示唆して翻意を迫るパターンの退職妨害は、実務上、一定の頻度で目にします。長時間に渡る拘束との合わせ技とはいえ、今回、この類型の退職妨害に違法性が認められたことは、相応に大きな意義があるように思います。

 本件は、退職妨害をしてくる会社に立ち向かうにあたり、実務上参考になります。

 

「残業代の請求をした場合には人事評価が下がる」との発言に違法性が認められた例

1.残業代請求の妨害

 残業代が支払われないことに対し、労働者が残業代を請求しようとすると、会社側から陰に陽に嫌がらせを受けることがあります。人事権を背景とした「残業代の請求をした場合には人事評価が下がる」という脅しは、その典型であるといえます。

 こうした言動は、それ自体、違法とはいえないのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令6.2.5労働判例ジャーナル150-28 アイエスエフネット事件です。

2.アイエスエフネット事件

 本件で被告になったのは、情報システムの設計、施工、保守及びコンサルタント業務等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、被告の従業員の方です。取締役らからパワーハラスメント等を受けて適応障害を発症したなどと主張し、安全配慮義務違反等を理由に、慰謝料等を請求する訴えを提起したのが本件です。なお、原告の方は、別途、割増賃金(いわゆる残業代)も請求していましたが、この点については裁判上の和解が成立しています。

 本件で原告が問題にした行為は多岐に渡りますが、その中の一つに、上司であるg部長の

「残業代の請求をすると原告の人事評価が下がるので止めた方がよい」

という発言がありました。

 この発言について、裁判所は、次のとおり述べて、違法性を認めました。

(裁判所の判断)

g部長発言は、原告に対して、残業代の請求をした場合には人事評価が下がる旨を伝えたものであり、原告の権利行使のための行為を不当に阻害するものであるといえる。

「被告は、g部長発言は、原告が残業調整等によって被告に定められた方法によって勤怠報告をしていなかった点を指摘して、そのような状況で残業代請求をすることの問題点を指摘したのみであり、原告の権利行使を妨げる意図はなかったと主張する。しかしながら、前記・・・のとおり、残業調整については原告のみを非難することはできないものであるし、前提事実・・・のとおり、令和2年3月頃から原告の残業の調査は継続的に実施されていたのであるから、遅くともg部長発言があった時点においては、被告においても、原告による残業調整が専ら原告の責めによるものではないことを理解していてしかるべきだったといえる。そうすると、g部長の意図が被告の主張するとおりであったとしても、g部長発言は正当化されない。」

したがって、g部長発言は、違法なものといえる。

3.権利行使の妨害の違法性が認められた

 読者の方には、このような発言に違法性が認められるのは当然だと思う方もいると思います。

 しかし、弁護士的な感覚で言うと、決して当然ではありません。裁判においては、違法と適法との間に、

「不適当ではあるが、違法とまではいえない」

という広大なゾーンが存在しているからです。誰がどう見ても不適切な言動であったとしても、単発の発言などは、

「不適当ではあるが、(金銭賠償を必要とするほどの域に達しているという意味で)違法とまではいえない。」

といった形で違法性が否定される例が少なくありません。

 そのため、今回、裁判所が、残業代請求を阻止するための言動に違法性を認定したことは、私には画期的なことであるように思われます。

 特に注目されるのは、g部長の発言がサービス残業を強いる会社で用いられる典型的な言動であることです。この種の言動は、実務上頻繁に観測されます。他の同種事案に広く活用して行くことが考えられ、本裁判例は、実務上参考になります。

 

使用者が文書提出命令に従わなかったことを受け、残業代の推計が認められた例

1.真実擬制

 民事訴訟法224条は、次のとおり規定しています。

第二百二十四条 当事者が文書提出命令に従わないときは、裁判所は、当該文書の記載に関する相手方の主張を真実と認めることができる。

2 当事者が相手方の使用を妨げる目的で提出の義務がある文書を滅失させ、その他これを使用することができないようにしたときも、前項と同様とする。

3 前二項に規定する場合において、相手方が、当該文書の記載に関して具体的な主張をすること及び当該文書により証明すべき事実を他の証拠により証明することが著しく困難であるときは、裁判所は、その事実に関する相手方の主張を真実と認めることができる。

 これは、裁判所が発令する文書提出命令に当事者が従わない場合に、ペナルティとして文書の記載内容に関する相手方の主張や、文書の記載により立証しようとしている相手方の主張を真実であるとみなしてしまうという仕組みです。

 しかし、裁判所が文書提出命令の発令に消極的であること、文書提出命令に従わない当事者が殆どいないこと、裁判所が真実擬制に消極的であることから、実務上、この仕組みは、それほど活用されているわけではありません。

 こうした状況の中、近時公刊された判例集に、タイムカードを提出しない使用者との関係で、民事訴訟法224条3項の真実擬制が認められた裁判例が掲載されていました。ここ数日ご紹介している、東京地立川支判令6.2.9労働判例ジャーナル150-26JYU-KEN事件です。

2.JYU-KEN事件

 本件で被告になったのは、不動産の売買、賃貸、管理及び受託不動産の活用企画業務等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、被告で不動産営業職として働いていた方です。被告を退職した後、未払の時間外勤務手当の支払い等を求めて提訴したのが本件です。

 本件では一部期間のタイムカードがなかったことから、原告側が文書提出命令を申立て、これが裁判所で認められました。しかし、被告側は、タイムカードを保有・保管していないとして、裁判所の命令に従いませんでした。

 このような事実関係のもと、裁判所は、次のとおり述べて、タイムカードがない期間の残業代を、他の期間の残業代の平均額を基に推計して認定しました。

(裁判所の判断)

前記前提事実・・・記載のとおり、原告は、その立証等のため、上記期間のタイムカードについて文書提出命令を申し立て、これを認める決定が確定したが、被告は、上記期間のタイムカードは保有又は保管していないとして、これを提出せず、当該期間の業務日報メールを提出したことが認められる。そして、原告は、平成31年2月から令和2年6月15日までの間に行った時間外勤務等に対応する1月あたりの時間外勤務手当等の平均額を基に、民事訴訟法224条に基づき、合計29万0982円を下らない旨主張している。

そこで、真実擬制の可否について検討するに、前記のとおり、タイムカードにより出退勤時刻の管理が行われている本件において、上記期間のタイムカードは、原則として原告の実際の出退勤時刻が記録されているものであるから、タイムカードの記載に関し、原告が具体的な主張をすることは著しく困難である。また、業務日報メールで業務内容についてある程度の記憶喚起ができたとしても、具体的な出退勤時刻まで導き出すことは容易ではなく、原告が、タイムカードにより立証すべき事実(上記期間の実労働時間)を他の証拠により立証することも著しく困難である。

そうすると、少なくとも令和2年6月16日から同年7月21日までの間の時間外労働手当については、民事訴訟法224条3項により、原告の主張を基に算出すべきである。

「もっとも、その金額は、前記のとおり、平成31年2月4日から令和2年6月15日までの時間外手当の平均額は、月額15万3611円と認められるから(261万1392÷17、小数点以下四捨五入)、上記金額を基とすべきである。また、同年7月22日から同月31日までの10日間については、原告は有給休暇を取得しているのであるから、上記事情を考慮しても、真実擬制を認める必要性は見出せない。」

「以上によれば、令和2年6月16日から同年7月31日までの間の時間外労働手当は、18万4333円と認められる。

(計算式)

153,611+153,611×6/30=184,333」

3.残業代立証と文書提出命令

 労働基準法109条は、

「使用者は、労働者名簿、賃金台帳及び雇入れ、解雇、災害補償、賃金その他労働関係に関する重要な書類を五年間保存しなければならない。」
と規定しています。

 タイムカードや出勤簿は、ここで言われている

「その他労働関係に関する重要な書類」

の中に含まれます(厚生労働省労働基準局『労働基準法 下』〔労務行政、令和3年版、令4〕1123頁参照。ただし、附則143条1項により上記「五年間」は当面の間「三年間」とされています)。

 法令上持っていなければおかしい文書を「ない」と強弁し、裁判所の文書提出命令にも従わない相手方に対し、推計計算・真実擬制が認められたことは、労働者が残業代請求を行うにあたっての励みになるもので、実務上参考になります。

 なお、

この事件で問題となった文書提出命令に関する裁判は、以前、このブログでも取り上げたことがあります。

タイムカードの文書提出命令-信用性の欠如は必要性を否定するか? - 弁護士 師子角允彬のブログ

タイムカードが「ない」という主張が排斥され、文書提出命令が発令された例 - 弁護士 師子角允彬のブログ

 ご興味のある方は、参考にして頂ければと思います。

 

退職労働者に対するパソコンのデータ復旧費用相当額の損害賠償請求が棄却された例

1.パソコンデータの消去

 退職するにあたり、職場から貸与されたPCを初期状態に戻してから返却する方は、少なくありません。貸与を受けた時の原状に復して返却しようという感覚なのだと思われます。

 こうした行為の殆どは特に問題視されることはありません。しかし、解雇の効力を争って地位確認を請求したり、残業代を請求したり、ハラスメント慰謝料を請求したりするなど、退職後に法的措置をとると、会社側からデータの消去行為を問題視されることがあります。損害賠償としてデータの復旧費用を払えといったようにです。

 それでは、会社から損害賠償を求められた場合、退職した労働者は、これに応じる必要があるのでしょうか?

 近時公刊された判例集に、こうしたデータ復旧費用相当額の損害賠償請求が棄却された裁判例が掲載されていました。一昨々日、一昨日、昨日と紹介させて頂いている、東京地立川支判令6.2.9労働判例ジャーナル150-26 JYU-KEN事件です。

2.JYU-KEN事件

 本件で被告になったのは、不動産の売買、賃貸、管理及び受託不動産の活用企画業務等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、被告で不動産営業職として働いていた方です。被告を退職した後、未払の時間外勤務手当の支払い等を求めて提訴したのが本件です。

 これに対し、被告は、退職にあたり業務使用目的で貸与されていたノートパソコン内のデータを全消去して返却したことが債務不履行ないし不法行為にあたるとして、原告に対し、情報復旧費用等の損害賠償を求める反訴を提起しました。

 本日の記事で焦点を当てたいのは、反訴請求についての判断です。

 裁判所は、次のとおり述べて、反訴請求を棄却しました。

(裁判所の判断)

「前記前提事実によれば、被告の就業規則には、故意又は重過失若しくは過失により、パソコンのハードディスクに保存されているデータを消去した場合には、懲戒の対象となる旨定められている。」

「そして、本件において、原告は、退職に伴い、備品の原状回復が必要であると考え、直属の上司である訴外P3その他備品を管理している担当者に特段確認することなく、被告から貸与されていたパソコンのハードディスク内のデータを消去したものであり、原告の上記行為は、少なくとも過失によるものとして、就業規則84条に反するものといわざるを得ない。」

「これに対し、原告は、貸与されていたパソコンのデータを消去せずに返還すべき旨規定した就業規則はなく、被告からデータ消去を禁止する職務命令が発令されたこともなく、貸与を受けていた備品を原状に復して返還したにすぎないから不法行為には該当しない旨主張するが、前記のとおり、被告の就業規則上、故意、重過失又は過失によりパソコンのハードディスクに保存されているデータを消去した場合には懲戒の対象となるのであるから、原告の主張は採ることができない。」

「そこで、原告の上記行為による被告の損害について検討する。」

この点、被告は、当該パソコンのデータを復旧させる費用である57万6940円を損害として主張する。

しかし、被告は、原告が退職した後、既に3年近くが経過してもなお、当該パソコンのデータを復旧しておらず、その理由として、時間を要し、確実に復旧できるか定かではないからとしていること(被告代表者)からすると、今後も、データを復旧する予定はないものと認められる。

したがって、被告にデータ復旧費用としての損害が生じたとは認められない。

「また、被告は、原告の上記消去行為により、契約が2件解除になり、他の顧客に対する確認等の作業のために人件費を要しており、その金額はパソコンのデータ復旧費用を下らないなどとも主張するが、被告が主張する契約の解除や他の顧客に対する確認作業など事実関係の有無のみならず、契約解除に伴う損害や要した人件費について、被告代表者の供述以外に証拠は見当たらず、損害についての立証が不十分であるといわざるを得ない。加えて、原告が、被告を退職するにあたり、複数日にわたって引継ぎを行っていること・・・も併せ考慮すれば、原告のデータ消去行為と被告が主張する損害との間の因果関係についても、明らかとはいい難い。」

したがって、被告の反訴請求は認められない。

3.実際に復旧させていなければ損害は発生していない

 データ復旧費用相当額の反訴請求が(さしたる復旧の必要性もないのに行われた)報復的なものである場合、使用者側が実際の復旧作業に踏み切っていないことが多くみられます。

 そうした事案において、本件は「損害がない」という論理で防御可能であることを示しました。これは同種事案の処理との関係で大いに参考になります。

 ただし、一方で過失による就業規則違反を認めていることからすると、やはりデータは消さないでおいた方が無難だとは言えます。