弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

労働契約と業務委託契約の差-事実認定論を意識して契約の法的性質を議論することの重要性

1.労働契約と業務委託契約

 労働契約なのか業務委託契約なのかで、働く人の立場は大きく異なってきます。労働契約であれば、労働基準法や労働契約法をはじめ、各種労働関係法令の保護を受けることができます。他方、業務委託契約であれば、契約自由の原則のもと、法令上の保護を受けることなく経済的強者に対峙することを余儀なくされます。

 このような保護の強弱は、法令の適用に限ったことではありません。事実認定においても顕著な差が生じています。そのことは、近時公刊された判例集に掲載されていた東京地判令4.1.26労働判例ジャーナル123-44 東信観光事件からも分かります。

2.東信観光事件

 本件で被告になったのは、ホテル経営等を業とする株式会社です。

 原告になったのは、業務委託契約を締結したうえ、被告の経営するホテル(本件ホテル)の管理運営を受託していた方です。契約締結時、業務委託報酬は月額60万円と決められていました。その後、報酬が月額30万円まで下げられたところ、これが原告との合意に基づく取扱いであるのかが問題になりました。

 この論点について、裁判所は、次のとおり述べて、報酬減額合意の成立を否認し、原告の請求を棄却しました。

(裁判所の判断)

「前記前提事実及び認定事実(以下『前提事実等』という。)によれば、被告代表者は、平成30年10月の話合いの際、原告に対し、本件ホテルの経営不振等を理由に本件ホテルの営業停止も検討していること、本件ホテルの営業を続けるとしても業務委託報酬としては月額30万円を負担するのが限界であることを伝え、それに対し、原告は、最終的には本件ホテルの営業継続を希望し、少し頑張るからやらせてほしい旨返答したというのであるから、上記やり取りをもって、原被告間に本件業務委託契約の報酬を月額60万円から月額30万円に減額する旨の合意が成立したと認めるのが相当である。」

「これに対し、原告は、被告代表者と本件減額の件で話合いをしたのは平成30年12月のみであって、同年10月には話合いをしていない、同年12月の話合いの際にも、被告代表者から一方的な話がされるのみであり、原告が改めての金額提示等を求めたのに対し、被告代表者がもう一度話合いの場を設定するという態度を示したことから、結局、報酬減額についての結論は出ず、本件減額についての合意は成立していない旨主張し、これに沿う原告作成の陳述書・・・の記載及び原告本人尋問の結果がある。」

しかしながら、前提事実等によれば、本件減額は、平成30年10月分からされ、しかも報酬を従前の半額の月額30万円にするという大幅な減額であったところ、仮に同年10月の話合いがなかったとすれば、本件減額から同年12月の初回の話合いまでの間に少なくとも1か月以上の期間があったことになるところ、原告が、この間、ファックスなど被告への連絡手段があったにもかかわらず、本件減額について異議を述べていたと認めるに足りる的確な証拠はない。この点につき、原告は、この間、被告代表者に連絡を取ろうとしていたとか、Dを通じて面談の日程を調整してもらっていたなどと供述するが・・・、これらの事実を認めるに足りる裏付け証拠等はなく、採用することができない。他方、被告代表者は、同年10月に原告と本件減額について実質的な話合いをした旨供述するところ・・・、同供述内容は上記のような経過に照らして合理的であり、採用することができる。」

「同話合いの内容についても、本件ホテルの売上げが同年9月時点で月額83万円余りと低迷し(前提事実等)、月額60万円の報酬額では明らかに採算割れする状態であったこと、原告も売上高の集計等を通じてそのことを認識していたことに照らして合理的であり、被告代表者の同供述部分(被告代表者8~10頁等)は採用することができる。」

「そして、前判示のとおり、同年10月の話合いで本件減額について合意が成立したのであるから、同年12月の面談で被告代表者が具体的な金額の提示等をしなかったとしても、上記合意の効力が覆されるものではない。この点をおくとしても、同月の面談で原告が具体的な金額の提示等を求め、被告代表者がもう一度話合いの場を設定するという態度を示したとすれば、同話合いの後、原告ないし被告代表者から、本件減額や話合いの場の設定について何らかの連絡等をするのが通常であるところ、本件全証拠に照らしても、原告及び被告代表者がそのような行動に出たと認めるに足りる証拠はなく、この点に関する原告の供述部分も採用することができない。」

「以上によれば、前記原告の主張に沿う原告作成の陳述書・・・の記載及び原告本人の供述部分はいずれも採用することができず、他に同主張事実を認めるに足りる的確な証拠もないから、結局、同主張は採用することができない。」

3.片や2年でも可、片や1か月でもダメ

 以前、このブログで、

約2年前に行われた賃金減額の効力を争えた例(長期間異議を述べずにいたこと≠黙示の合意) - 弁護士 師子角允彬のブログ

という記事を書き頂きました。

 この記事の中で紹介した東京地判令3.9.7労働判例ジャーナル120-58 メイト事件の裁判所は、

「労働者が賃金の減額について長期間異議を述べずにいたことをもって直ちに当該賃金減額について黙示に合意したといえるものではない。」

と約2年が経過していても、なお賃金減額の効力を争うことは可能だと判示しました。

 他方、本件では、1か月間に渡って異議が述べられた形跡がないこと等を理由に、原告の主張が排斥され、報酬減額の合意の存在が認定されました。

 こうして対照してみると、

労働者は事実認定論においても保護されていること、

法適用の問題がなかったとしても、契約の法的性質を論じる必要があること

が如実に理解されます。

 本件で労働者性を主張したとして、それが通ったかどうかは分かりませんが、契約の法的性質を論じる実益は具体的な法適用の問題に限られない-そうした意識は常に持っておくことが必要です。

 

固定残業代の廃止や減額に労働者の同意等は必要にならないのか?

1.固定残業代

 「時間外労働、休日および深夜労働に対する各割増賃金(残業代)として支払われる、あらかじめ定められた一定の金額」を固定残業代といいます(白石哲編著『労働関係訴訟の実務』〔商事法務、第2版、平30〕115頁参照)。残業代の支払い方法を定額払にするものであるため、実際に行われた時間外労働等により発生する割増賃金の額が、固定残業代を下回ったとしても、使用者は労働者に対して固定残業代に相当する額を支払わなければなりません。

 他方、固定残業代を導入したところで、法で定められている割増賃金の支払を免れることはできません。実際に行われた時間外労働等により発生する割増賃金の額が、固定残業代を上回る場合、使用者は労働者に差額を支払わなければなりません。

 固定残業代は、使用者に対し、

実際の割増賃金額が固定残業代を下回っていても、固定残業代に相当する額は支払わなければならない、

実際の割増賃金額が固定残業代を上回っている場合には、固定残業代で不足する差額部分を支払わなければならない、

という片面的な義務を課する仕組みです。

 つまり、固定残業代は労働者にとって本来有利に機能する制度です。固定残業代に悪いイメージが付きまとうのは、濫用的に用いられることが多く、日本全国で紛争の火種になっているからにすぎません。 

 多くの企業で導入されている固定残業代ですが、法の趣旨に反しないように用いようとすると使用者にとって損な仕組みでしかないためか、近時、固定残業代を廃止する企業が増えてきているように思います。

 それでは、使用者は固定残業代を自由に廃止することができるのでしょうか? 一旦導入された固定残業代を廃止するには、労働者の同意等が必要にならないのでしょうか?

 昨日ご紹介した、東京地判令3.11.9労働判例ジャーナル122-56 インテリム事件は、この問題を考えるうえでも参考になる判断を示しています。

2.インテリウム事件

 本件で被告になったのは、医薬品等の臨床開発業務に関する受託(CRO業務等)を事業として行う株式会社と(被告会社)、その代表取締役P2、取締役P3の1法人2名です。

 原告になったのは、被告との間で期限の定めのない労働契約を手結した方です。原告が提起した問題点は多岐に渡りますが、その中の一つに

職務給を月額55万円から月額51万円に、

みなし手当(固定残業代)を月額22万円から月額18万2000円に、

減額したことの適否がありました(本件賃金減額〔1〕)。

 この減額の効力を判断するにあたり、裁判所は、次のとおり判示しました。

(裁判所の判断)

「原告の14期の年俸は960万円、月額80万円であるが、その内訳は基本給(職務給)月額55万円、住宅手当月額3万円、44時間分の時間外手当及び5時間分の法定外休日手当に相当するみなし手当月額22万円であること、被告会社の人事賃金内規〔1〕職務給(M職・L職 給与テーブル)・・・では、原告の職種(管理系・Specialist系)、職務等級(L職位・3等級)に対応する年俸は、住宅手当及びみなし手当を除く金額で576万円から720万円までの間、月額では48万円から60万円までの間とされており、原告の14期の基本給(職務給)55万円は上記人事賃金内規〔1〕職務給で定められた基本給(職務給)の上限額60万円の約91.6パーセントに当たること、証拠・・・によれば、原告の採用が決まった際に原告に交付された内定通知書には、『月額詳細 基本給 職務給 55万円 ※管理系 Specialist系(CR91.6パーセント)』と記載されていることが認められることに照らすと、原告と被告会社との間で、みなし手当については、いわゆる固定残業代として支払う旨が合意されていたと認められる。」

「上記のとおり、14期のみなし手当は、本件労働契約に基づく所定労働時間内の労務の提供の対価として合意されたいわば通常の賃金ではなく、原告の業務内容等に照らして、毎月相当時間数の残業が生じることを想定して、あらかじめ44時間分の時間外労働及び5時間分の法定外休日労働に対する割増賃金として支払うことが合意されたものである。そして、割増賃金の支払については、労働基準法37条その他関係規程により定められた方法により算定された金額を下回らない限り、これをどのような方法で支払おうとも自由であるから、使用者が、一旦は固定残業代として支払うことを合意した手当を廃止し、手当の廃止後は、毎月、実労働時間に応じて労働基準法37条等所定の方法で算定した割増賃金を支払うという扱いにすることもできるというべきであり、いわゆる固定残業代の廃止や減額は、労働者の同意等がなければできない通常の賃金の減額には当たらないというべきである。

「これを本件についてみるに、被告会社は、本件賃金減額〔1〕の際に、いわゆる固定残業代としての性質を有するみなし手当について、14期においては44時間分の時間外労働及び5時間分の法定外休日労働に対する割増賃金として月額22万円を支払うとしていたものを、15期においては43時間分の時間外労働に対する割増賃金として月額18万2000円を支払うことに変更しているが、これは被告会社が割増賃金の支払方法を変更したものにすぎず、違法であるとは認められない(そもそも、被告会社が本件賃金規程に基づく年俸額決定権限を行使して減額変更したものではない。)。」

3.手当の廃止を自由と割り切っていいのか?

 この事件の裁判所は固定残業代の廃止や減額について、労働者の同意等は必要とされないと判示しました。

 しかし、冒頭で述べたとおり、固定残業代は法の趣旨に従って運用されれば労働者の有利に作用する仕組みです。これを使用者の胸三寸で一方的に廃止・減額できるとする解釈には強い違和感を覚えます。

 個人的には先例としての意義は乏しいと思っていますが、このような裁判例も存在することは注意しておく必要があります。

 

営業一筋のキャリアを積み重ねてきた労働者を監査室に配転することが違法とされた例

1.広範な配転命令権

 配転命令権が権利濫用となる要件について、最高裁判例(最二小判昭61.7.14労働判例477-6 東亜ペイント事件)は、

「使用者は業務上の必要に応じ、その裁量により労働者の勤務場所を決定することができるものというべきであるが、転勤、特に転居を伴う転勤は、一般に、労働者の生活関係に少なからぬ影響を与えずにはおかないから、使用者の転勤命令権は無制約に行使することができるものではなく、これを濫用することの許されないことはいうまでもないところ、当該転勤命令につき業務上の必要性が存しない場合又は業務上の必要性が存する場合であつても、当該転勤命令が他の不当な動機・目的をもつてなされたものであるとき若しくは労働者に対し通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせるものであるとき等、特段の事情の存する場合でない限りは、当該転勤命令は権利の濫用になるものではないというべきである。右の業務上の必要性についても、当該転勤先への異動が余人をもつては容易に替え難いといつた高度の必要性に限定することは相当でなく、労働力の適正配置、業務の能率増進、労働者の能力開発、勤務意欲の高揚、業務運営の円滑化など企業の合理的運営に寄与する点が認められる限りは、業務上の必要性の存在を肯定すべきである。」

と判示しています。

 つまり、配転命令が無効になるのは、基本的に、

① 業務上の必要性が認められない場合、

②-A 業務上の必要性があっても、不当な動機・目的をもってなされたものである場合、

②-B 業務上の必要性があっても、労働者に対し通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせるものである場合、

の三類型しかありません。

2.長年同じ職種でキャリアを積み重ねているだけでは配転は拒みにくい

 長年同じ職種でキャリアを積み重ねてきた労働者の中には、職種の変更を伴う配転には極力応じたくないと考えている方が少なくありません。

 しかし、キャリアの断絶が苦痛だというだけで配転命令を拒否することは、必ずしも容易ではありません。

 配転命令を拒否するには、

東亜ペイント事件の判断枠組に従って配転命令権の濫用を立証するか、

職種限定合意を立証するか、

いずれかの条件を充足させる必要があります。

 しかし、

業務上の必要性が極めて緩やかに肯定されることや、

営業など普通の業務に従事している人のキャリアの断絶に関しては「通常甘受すべき程度を著しく超える不利益」として認められにくい傾向があることから、

東亜ペイント事件の判断枠組に従って配転命令権の濫用を立証することは容易ではありません。

 また、大学教授や医師などの一部専門職を除き、黙示の職種限定契約が成立したとする法律構成が裁判所で認められることも、あまりありません。

 そのため、不本意な職種変更を伴う配転命令であったとしても、多くの場合、これを受け容れざるを得ないという現実があります。

 しかし、近時公刊された判例集に、営業一筋のキャリアを積み重ねてきた労働者を監査室に配転したことが違法だと判断された裁判例が掲載されていました。東京地判令3.11.9労働判例ジャーナル122-56 インテリム事件です。

3.インテリム事件

 本件で被告になったのは、医薬品等の臨床開発業務に関する受託(CRO業務等)を事業として行う株式会社と(被告会社)、その代表取締役P2、取締役P3の1法人2名です。

 原告になったのは、被告との間で期限の定めのない労働契約を手結した方です。原告が提起した問題点は多岐に渡りますが、その中の一つに配転命令の適否に係る問題があります。原告の方は、長年慣れ親しんできた営業職から監査室に異動するよう命令を受けました。これに対し、配転命令の不法行為該当性を主張し、原告は被告に慰謝料の支払いを認めのが本件です。

 これに対し、裁判所は、次のとおり述べて、配転の効力を否定しました。

(裁判所の判断)

「使用者は、労働契約に基づき、業務上の必要に応じ、その裁量により労働者にどのような業務を担当させるかを決定することができるが、もとよりその権利を濫用することは許されない(民法1条3項、労働契約法3条5項)のであるから、当該配転命令について業務上の必要性が存しない場合又は業務上の必要性が存する場合であっても、当該配転命令が他の不当な動機・目的をもってなされたものであるとき若しくは労働者に対し通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせるものであるとき等、特段の事情が存する場合には、当該配転命令は権利の濫用として違法と認められることがあるというべきである。」

「これを本件について検討するに、前記前提事実のとおり、原告は、大学卒業後、ほぼ一貫して営業業務に従事しており、特に医薬品や医療機器関連の営業について豊富な経験を有していることを評価されて、被告会社に好待遇で採用されたものであり、被告会社に入社後も、特に医薬品治験市場関連の営業を担当していた際には、毎期、相当高額な案件の受注に貢献していた一方で、監査関連の業務には従事したことがなく、被告会社において定める監査担当者の要件のいずれも満たしてはいなかった。また、原告が、被告会社から、本件配転命令により監査室への異動を命じられたのは、新たに医療機器治験市場を開拓するように命じられ、従前担当していた医薬品関連の顧客を他の営業社員に引き継ぎ、医療機器関係の営業に取り組むようになってから半年前後しか経っていない時期である。

これらの事情に照らすと、被告会社に、ほぼ営業一筋でキャリアを積み上げていた原告を、監査室に異動させることについて、業務上の必要性があったとは考え難い。

「この点、被告らは、原告が報・連・相を疎かにするなど、様々なトラブルを発生させており、医薬推進部に在籍していた当時の成績が著しく低く、営業業務を任せることはできなくなっていた一方で、対内的な業務である監査業務であれば活躍する可能性があったことから、監査室への配転を命じたものであり、本件配転命令には合理的な必要性があったと主張し、被告P2及び同P3も、各本人尋問において、これに沿う供述をする。」

「しかしながら、前記のとおり、原告が医薬推進部在籍中に査定面談のために提出していた資料には、毎期、高額の案件を受注していた旨の記載がされている一方で、これが事実と異なることを窺わせる客観的な資料は存しない。また、被告会社において、原告の業務態度や成績不良を問題とし、それらについて指摘したり、指導したりしていたことを窺わせる資料も存しない。被告会社の上記主張の前提となっている事実を認めるに足りる証拠はなく、被告会社が主張する本件配転命令の必要性が存したとは認められない。」

「以上によれば、本件配転命令は業務上の必要性が存しないにもかかわらず、被告会社がその権限を濫用して行ったものであり、不法行為を構成するというべきである。そして、原告が本件配転命令によって被った精神的苦痛に対する慰謝料としては、原告が長年にわたってキャリアを積み上げてきた営業職から合理的な必要性なく外され、監査室に配属後は、監査業務について全く経験がなく、十分な知識もないため、本来的な監査業務に従事することもできず、ほとんどの時間を自習などで過ごさざるを得なくなったことや、本件配転命令に至る経緯及び監査室での上記のような勤務を強いられた期間など、本件に顕れた諸事情に照らすと、100万円と認めるのが相当である。また、これと相当因果関係のある弁護士費用の額は10万円と認めるのが相当である。」

4.いわゆる普通の労働者であっても職種を変更する配転命令の効力が否定された

 営業職のようないわゆる普通の労働者への配転命令が、長年に渡りキャリアを築いてきた等の理由で効力を否定される場面は、あまり見聞きしたことがありません。

 そうした状況の中長年栄養に従事してきたことを理由に配転の衡量が否定されていることは注億に値します。

 不法行為の事案であること、監査室への配転命令が年俸減少を伴うものであったっことなど特殊性の高い事案における判断ではありますが、労働者のキャリア保護を考える上で参考になります。

 

加害者の過失の重大性が根拠となって過失相殺が否定された例

1.広範すぎる過失相殺

 民法722条2項は、

「被害者に過失があったときは、裁判所は、これを考慮して、損害賠償の額を定めることができる。」

と規定しています。

 被害者に過失がある場合、この規定を根拠に賠償額の一部がカットされます。これを「過失相殺」といいます。

 この過失相殺の法理は、実務上、極めて広い範囲で適用されています。落ち度とはいえない身体的・精神的な要素があるにすぎない場合にまで(類推)適用される例があるくらいです(例えば、心因的要素が損害の拡大に寄与した事案について、最一小判昭63.4.21民集42-4-243参照)。

 落ち度がない場合にも「損害を公平に分担させるという損害賠償法の理念」(上記最判)のもと、ザクザクと賠償額が減じられてしまうため、過失相殺はしばしば被害者にとって酷な結果を招きがちです。

 このような問題意識を持っていたところ、近時公刊された判例集に、被害者に一定の落ち度がありながら、加害者に重大な過失があることを理由に、過失相殺が否定された裁判例が掲載されていました。福岡地小倉支判令4.1.20労働判例ジャーナル122-56 損害賠償請求事件です。

2.損害賠償請求事件

 本件で原告になったのは、県立高校に在学していた方です。硬式野球部での練習中、右側頭部に打球が直撃して外傷性蜘蛛膜下出血等の傷害を負ったうえ、右側感音性難聴・内耳機能障害等の後遺障害が残ったのは、部活動顧問による安全配慮義務違反が理由であると主張し、高校設置者である地方公共団体に対して損害賠償を求める訴えを提起しました。

 事故当時、原告は打撃投手をしていました。原告に打球が直撃したのは、投球後にL字型の防球ネットに身体を隠すのが遅れたことも一因となっていました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、部活動顧問による過失の重大性を根拠に過失相殺を否定しました。

(裁判所の判断)

「高野連が、打撃練習時に、打撃投手を務める者に対して投手用ヘッドギアの着用を義務付けたのは、硬式球が打撃投手の頭部に当たれば生命身体に重大な危険が生じるおそれが高いところ、打撃投手を務める者と打者との距離及び打球の速さを勘案すると、L字ネットだけでは当該打撃投手が打球を避けられない場合があることによるものと解される。」

「しかも、本件事故時の打撃練習においては、打撃投手と打者との距離が公式ルールで定められた距離よりも短く、約15mしかなかったことからすれば、打撃投手はL字ネットだけでは打球を避けることができず、打球が打撃投手の頭部に当たる可能性が高くなっていたといえる。そうすると、B教諭が、打撃投手を務める原告に対し、その生命身体の安全を確保するため投手用ヘッドギアを着用するよう指導する必要性は高く、配布されていた指導者必携の記載を確認せずこれを怠ったB教諭の過失は重大であるというべきである。

そうすると、前記認定事実・・・のとおり、本件事故が、原告がL字ネットに身体を隠すのが遅れたことも一因となって発生したものであるとしても、損害の公平な分担という見地に鑑みると過失相殺を認めることは相当とはいえず、被告の主張は採用できない。

3.安易な過失相殺の適用は慎まれるべきではないだろうか

 本邦の損害賠償法は「加害行為がなかった水準にまで実損害を填補する」という考え方で成り立っています。過失相殺が適用されることは、被害を受けていながら、損害の穴埋めすらされないことを意味します。適用範囲が極めて広いうえ、裁判所が慰謝料の認定に謙抑的であるため、過失相殺は被害者泣かせの仕組みといえます。

 確かに、被害者にも相応の落ち度がある場合には仕方ないのですが、極軽微な落ち度があるにすぎない場合や、加害者側の落ち度が圧倒的に大きい場合にまで過失相殺を広範に適用することに対しては、抑制的になった方がいいのではないかと思っています。

 本件の裁判所が使った論理はシンプルなもので、他の事案にも応用が利きやすいものになっています。過失相殺を防ぐため、本裁判例は積極的に活用して行くことが期待されます。

 

インハウス(組織内弁護士)相手なら人事権を持つ上司による個室での4時間の面談も許されるのか?

1.弁護士ならトラブルになっても平気?

 弁護士であればトラブルに遭っても自力で解決できるから平気だろう-このように考えている方は少なくないように思います。

 確かに、平気な弁護士もいることは否定しません。しかし、多くの弁護士にとって、自分の身に降りかかるトラブルに対処することは、決して楽なことではありません。

 他人(依頼人)のトラブルの解決にあたる時に感じるストレスと、自分自身のトラブルに対処する時に感じるストレスとは質的に異なるからです。前者の経験を幾ら積み重ねても、後者に慣れることはありません。また、他人のトラブルに対しては一歩引いた立場から冷静・客観的な対応が可能になるのに対し、自分自身のトラブルへの対応にはどうしても感情や主観が入ってしまいます。経済的な対価が発生するわけでもないし、他人が困るわけでもないため、面倒くさくなって、対応が遅滞したり、処理が御座なりになってしまったりすることもあります。こうしたことから、弁護士であっても、自分自身のトラブルに対処するにあたっては、他の弁護士を代理人として選任することが珍しくありません。

 実情を知っている立場からすると、トラブルの場面で「弁護士だから平気だろう」といった見方をされることには、かなりの違和感があります。しかし、こうした見方は社会に広く蔓延していますし、何なら裁判所からそう示唆されることもあります。昨日ご紹介した東京地判令3.11.15労働判例ジャーナル122-48 DMM.com事件も、そうした事件の一つです。

2.DMM.com事件

 本件で被告になったのは、インターネット動画配信等の事業を展開する株式会社です。

 原告になったのは、平成28年6月に被告に中途採用された法曹有資格者の方です。

 被告では中途採用については、先ず契約社員として半年間の有期雇用を行い、その雇用期間内の評価に応じて、契約社員として有期雇用を更新するか、正社員として無期雇用するかを判断する方法がとられていました(被告の採用方法)。

 しかし、被告の採用方法は、

「使用者が労働者を新規に採用するに当たり、その雇用契約に期間を設けた場合において、その設けた趣旨・目的が労働者の適性を評価・判断するためのものであるときは、右期間の満了により右雇用契約が当然に終了する旨の明確な合意が当事者間に成立しているなどの特段の事情が認められる場合を除き、右期間は契約の存続期間ではなく、試用期間であると解するのが相当である。」

と判示した最三小判平2.6.5労働判例564-7 神戸弘陵学園事件に抵触する可能性がありました。

 これを違法だとする原告に対し、被告は人事権を持つ上司2名による長時間(約4時間)の面談を実施しました。面談では被告の採用方法の適法性に疑義のあることを同僚と共有したのかといったことなどが問い質されました。こうした面談は自身の精神的自由や人格的利益を侵害するものであるとして、原告は被告に対して慰謝料等の支払いを求める訴えを提起しました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて強圧性を否定しました。結論としても、原告の請求を棄却しています。

(裁判所の判断)

「本件面談では、原告が自身の見解や信念を論理的に述べたり、臆することなくP3部長らと丁々発止の議論を行うなどしている様子を見てとることができ、少なくともP3部長らが一方的に質問や命令を続けているものではないし、強圧的な文言も全く用いられていない。」

「原告は、本件面談は、人事権を持つ上司との間で個室で約4時間にわたり行われたものであることを指摘する。しかし、本件面談時の双方のやりとり・・・をみると、原告とP3部長らとの議論の応酬が終始間断なく続いており、そのために長時間に及んだという面は否定できないし、P3部長らと原告との関係をみても、原告は法曹資格を有し、P2会長との直接の折衝を経て、アフリカ事業部の中で最高クラスのP4部長やP5部長よりも良い待遇で被告に入社しているという経緯もあり、議論の巧拙やアフリカ事業部内でのプレゼンスという点では、古典的な会社内での上下関係とみることができないともいえる。そうすると、単純に、長時間にわたるとか、人事権を有する上司との面談であるという上記のような事情だけを切り出して、強圧性の現れとみることは相当ではない。

「また、原告は、P3部長らが労使の対立構造を挙げ、『敵対行動』・・・などの不利益を受けるおそれを感じさせる文言を用いていたと主張するが、本件面談の性質上労使の見解の対立に言及することは不可避であるし、『敵対行動』という表現は原告が用いたものに呼応するように述べられたにすぎないように見受けられ・・・、これらが原告への不利益を示唆するものともいい難く、本件面談の強圧性を基礎づけるとはいえない。」

3.違法だと言っている弁護士に延々質問を重ねるのは十分強圧的ではないのか?

 法専門家は考えたうえで違法/適法の判断を行っています。非専門家から幾ら質問を受け続けたところで見解が変わることは殆どありません。

 人事権を背景に4時間にも渡って延々と質問を繰り返すことは、専門性を尊重する姿勢に欠けるうえ、十分強圧的であるように思われます。原告の方が臆することなく議論を行ったのは、違法行為に加担できないという矜持や職務基本規程上の義務の問題であり、圧力を感じていなかったというわけではないだろうとも思います。

 適法性に疑義のある行為を抑制できなくなるのではないかという観点からも、インハウスに対する本件のような干渉を許容することには疑義があります。

 

一義的明白に法令に反する指示でない限り、インハウス(組織内弁護士)は従わなければならないのか?

1.組織内弁護士

 官公署又は公私の団体において職員若しくは使用人となり、又は取締役、理事その他の役員となっている弁護士のことを組織内弁護士といいます(弁護士職務基本規程50条参照)。この組織内弁護士はインハウス(In-house lawyer)といわれることもあります。

 職務基本規程上、組織内弁護士は、

「弁護士の使命及び弁護士の本質であ る自由と独立を自覚し、良心に従って職務を行うように努める」(弁護士職務基本規程50条)、

「その担当する職務に関し、その組織に属する者が業務上法令に違反する行為を行い、又は行おうとしていることを知ったときは、その者、自らが 所属する部署の長又はその組織の長、取締役会若しくは理事会その他の上級機関に対する説明又は勧告その他のその組織内における適切な措置をとらなければならない」(弁護士職務基本規程51条)

とされています。

 つまり、組織からの命令でろうが、職務倫理上、法令に違反する行為をすることはできないとされています。

 しかし、法令遵守に対する意識が高まっている昨今、会社が一義的明白に法令に違反する業務命令を出すことは、そうそうあることではありません。

 それでは、会社からグレーな方針に従うことができるかと問いかけられた時はどうでしょうか。自分では違法だと思っていても、業務命令に従わなければ問題視されてしまうのでしょうか? 法専門家として違法であると述べている弁護士に対し、会社は業務命令に従えるかと踏み絵を迫るようなことができるのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令3.11.15労働判例ジャーナル122-48 DMM.com事件です。

2.DMM.com事件

 本件で被告になったのは、インターネット動画配信等の事業を展開する株式会社です。

 原告になったのは、平成28年6月に被告に中途採用された法曹有資格者の方です。

 被告では中途採用については、先ず契約社員として半年間の有期雇用を行い、その雇用期間内の評価に応じて、契約社員として有期雇用を更新するか、正社員として無期雇用するかを判断する方法がとられていました(被告の採用方法)。

 しかし、被告の採用方法は、

「使用者が労働者を新規に採用するに当たり、その雇用契約に期間を設けた場合において、その設けた趣旨・目的が労働者の適性を評価・判断するためのものであるときは、右期間の満了により右雇用契約が当然に終了する旨の明確な合意が当事者間に成立しているなどの特段の事情が認められる場合を除き、右期間は契約の存続期間ではなく、試用期間であると解するのが相当である。」

と判示した最三小判平2.6.5労働判例564-7 神戸弘陵学園事件に抵触する可能性がありました。

 これを違法だとする原告に対し、被告は人事権を持つ上司2名による長時間(約4時間)の面談を実施しました。面談では被告の採用方法の適法性に疑義のあることを同僚と共有したのかといったことなどが問い質されました。こうした面談は自身の精神的自由や人格的利益を侵害するものであるとして、原告は被告に対して慰謝料等の支払いを求める訴えを提起しました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、原告の請求を棄却しました。

(裁判所の判断)

「原告は、P3部長らによる本件面談が不法行為に当たると主張するところ、本件面談の必要性や質問内容、P3部長らの動機、本件面談時の状況や発言態様などの観点から検討することとする。」

(中略)

「本件面談の背景についてみると、P3部長らは、アフリカ事業部の人事権を有する者であったことから、原告に対する人事評価を行うべき立場にあり、かつ、同事業部の人事の円滑な運営に責任をもつ立場にもあったといえるところ、本件面談当時、原告が被告の採用方法に異論を述べるメールを送信してくるなど、原告が被告の採用方法を問題視していることが窺われる状況にあった。」

「被告やP3部長らにおいては、被告の採用方法が違法なものであるという認識はなかったため、P3部長らは、例えば、原告が、被告の採用方法が違法であるなど被告とは異なる見解を同僚に殊更喧伝しているなどということになれば、アフリカ事業部の人事の円滑な運営に支障を来すことにもなりかねないことに加え、原告自身の被告の採用方法についての理解ひいては原告の管理職としての適性にも疑問を抱かしめる事情ともなるものと考え、原告の行動の実態やその前提となる考え方を確認すべく、本件面談を実施したものといえる。そうすると、本件面談には業務上の必要性があるといえる。」

「そして、別紙のやりとりを通覧すれば、P3部長らは、主として、同僚に対して、労働者に有利な判例があり、裁判を起こせば勝てるかもしれないなどと伝えたことがあるのか、今後もそのようなことをする可能性があるのかということを尋ねており、ここから派生する本質的な問いとして、違法ではない範囲で原告の見解や信念と被告のそれとが相違する場合に、被告の決定に従うことができるかなどを質問しているものである。」

「上記のとおりの本件面談の背景や必要性に加え、被告は使用者として原告に対する包括的な指揮監督権限を有しており、原告はこれに従うべき義務を負っていることも踏まえると、上記の質問内容は、本件面談の背景や必要性に照らして不必要な範囲にまで及んでいるということはできないし、その質問内容自体も不合理なものとはいえない。」

原告は、P3部長らが被告の違法な方針に従うよう質問や命令を繰り返したと主張する。しかしながら、原告は、被告の採用方法が違法であるという前提に立っているものの、そもそも、被告の契約方式は、労働関係法令に一義的明白に反するようなものではなく、平成2年判例もその射程について議論があるものであって、その適法性は、被告の採用方法に関する事情や各従業員に係る個別事情をも踏まえた司法審査によらなければ判断し得ないはずのものである(現に、前訴判決も被告の採用方法自体に問題はなく、平成2年判例とも矛盾しないとの判断を示しているし、後述のとおり当裁判所もそのように考える。)。したがって、違法な方針に従うことを強いられたという原告の主張は、依って立つ前提を欠いているものといわざるを得ない。

「原告は、P3部長が『違法』と述べた部分・・・があることから、被告が被告の契約方式を違法と認識していると指摘するが、この部分は、『違法ですよ、判例でありますよって僕らにメール送ってくれたじゃないですか』とP3部長が原告から受信したメールの趣旨を要約しているにすぎないから、その指摘は牽強付会といわざるを得ない。また、P3部長は、『僕らマネージメントはこれから先、P1さんと考えが違っていて、それが会社のためだと僕らが思っていることで、法律的にアウトかアウトじゃないか、グレーだっていうところの、グレーという判断のものがあった場合、そういう風な考えがあるよっていうことを第三者にするということ?』・・・、『アウトはアウトだと思うんですよ。アウトはやっちゃいけないと思うんですけど、グレーなものがあってわからないものに関して、そういう選択を会社側が取ろうというときに、P1さんの正義と僕らの正義が合わなくて、会社側の決定に対して僕の正義は違うから仲間を守るためのチョイスをするということですよね?』・・・などと述べているとおり、むしろ違法な行為は行ってはならないことを明確に示しており、やはりP3部長らが被告の採用方針を違法と認識していたとは認められない。

「原告は、本件面談での質問によって、P3部長らが原告に正義感や信念を開示させたと主張するが、P3部長らは、業務とは無関係な思想良心の公表を求めているものではなく、業務において、違法ではない範囲で原告の見解や信念と被告のそれとが相違する場合に、被告の決定に従うことができるかを尋ねているにすぎず、上記のとおり、P3部長らの職責と使用者の包括的な指揮監督権限を考えたときには、不合理なものとまではいえない。」

「原告は、法的情報を同僚と共有したか否かは原告のプライバシーに属するとも主張するが、被告の採用方法に関する原告と他の従業員とのやりとりに関するものであって、原告の人事評価という意味でもアフリカ事業部の人事の円滑な運営という意味でも、P3部長らひいては被告側に無関係なものといえないことは上記のとおりであり、専ら原告の私的領域に関わる情報の公表を求められる質問であったとは評価し難い。」

(中略)

「上記のような事情を総合すると、質問した内容自体に照らせば、原告が主張するように、本件面談が原告の正義感や信念を開示させて原告の精神的自由を侵害したとか、原告のプライバシーなどの人格権を侵害したとは認められない。また、その他に本件面談やその質問内容は必要性ある範囲にとどまっていることや不当な動機・目的によるとも認められないほか、強圧的な部分も認め難いことなどの状況をみると、原告が主張するように、社会的に許容し得る限度を超えて、労働者としての活動に介入して原告の人格的利益を侵害したとか、パワーハラスメントとして原告の人格的利益を侵害したとも認められない。」

3.違法でない範囲において従えという質問なのか?

 違法でない範囲において従うことができるかという趣旨の発問であるとして、裁判所は被告による面談を適法だと判示しました。

 しかし、本件面談が裁判所の判示するような趣旨であったのかは疑問です。私には「グレーなんだから、会社の方針に従え。従うことができるのか?」と踏み絵を迫っているように感じられます。

 また、一義的明確に違法だといえるようなものではなければ、方針に従うように質問を繰り返すことも許されるといわんばかりの判示も、そのようなことを裁判所が述べて大丈夫なのかという気がします。会社で指揮命令を行う方は経営の専門家ではあっても法専門家ではありません。会社のグレーだという判断よりも、法曹有資格者の違法だという判断の方が類型的に信用できるはずです。組織内弁護士の側で違法だという認識を持っていても、会社がグレーだと言い張る限り、会社の判断に従わなければならないとすれば、会社の暴走への歯止めとしての役割を十分に果たすことができなくなってしまうことが懸念されます。

 違法だと述べている従業員が法曹有資格者であるという事案の特殊性を踏まえれば、本件には別異の判断も在り得たように思われます。

 

医師の指示通りに高血圧の薬を服用していなかった労働者には、脳血管疾患を発症しても労災が認められないのか?

1.脳血管疾患等の労災認定基準-精神障害の労災認定基準との違い

 厚生労働省は、精神障害の労災の認定要件について、

対象疾病を発病していること

対象疾病の発病前おおむね6か月の間に、業務による強い心理的負荷が認められること

業務以外の心理的負荷及び個体側要因により対象疾病を発病したとは認められないこと 

と規定しています(平成23年12月26日 基発1226第1号「心理的負荷による精神障害の認定基準について」最終改正:令和2年8月21日 基発0821第4号参照)。

https://www.mhlw.go.jp/content/000661301.pdf

 これに対し、脳血管疾患・虚血性心疾患等の労災の認定要件については、

発症前の長期間にわたって、著しい疲労の蓄積をもたらす特に過重な業務に就労したこと(長期間の過重業務)

発症に近接した時期において、特に過重な業務に就労したこと(短期間の過重業務)

発症直前から前日までの間において、発生状態を時間的及び場所的に明確にし得る異常な出来事に遭遇したこと(異常な出来事)

いずれかの業務による明らかな過重負荷を受けたことにより発症した脳・心臓疾患であることだと規定しています。

https://www.mhlw.go.jp/content/000832096.pdf

 両者の顕著な違いとして、個体側要因の位置付けがあります。精神障害の労災の認定要件には、個体側要因によらないことが明示的に掲げられています。他方、脳血管疾患等の労災の認定要件には、個体側要因によらないことが明示的に掲げられているわけではありません。

 それでは、脳血管疾患の労災認定の局面では、個体側の要因(例えば、基礎疾患を持っていながら医師の指示通りの服薬を行っていなかったことなど)は考慮されないのでしょうか?

 労働者保護の観点からは考慮されない方が好ましいのですが、残念ながら必ずしもそうはなっていません。近時公刊された判例集にも、リスクファクター要因に言及して脳血管疾患の業務起因性を否定した裁判例が掲載されていました。大阪地判令3.12.22労働判例ジャーナル122-56 国・北大阪労基署長事件です。

3.国・北大阪労基署長事件

 本件は労災の不支給処分に対する取消訴訟です。

 原告になったのはコンクリートミキサー車に乗務して、生コンクリートの配送業務に従事していた方です。休憩時間に社内で昼食を食べている際に右被殻出血(脳内出血の一種)を発症しました。原告の方は、休業補償給付を請求しましたが、北大阪労働基準監督署長により不支給処分を受けました。これに対し、審査請求、再審査請求を経て取消訴訟を提起したのが本件です。

 本件では業務自体の負荷のほか、原告の方が高血圧というリスクファクターを有していることがどのように評価されるのかが問題になりました。

 裁判所は、次のとおり述べて、原告の請求を棄却しました。

(裁判所の判断)

「(1)精神的負荷について」

「原告は、本件疾病を発症した当時、待機中にほかの車両が次々に出て行き、配車係から配送の指示があれば対応しなければならない状況であったこと、そのような状況の下で弁当を食べながら道順の説明をしなければならないという状況にあったことなどから、非常に緊迫した焦りがある状態で、道案内をしなければならず、急いで食事もとらなければならないという精神的負荷があった旨主張する。」

「しかし、原告は、本件疾病発症時までは、昼食時に出発する場合、配車係から事前に電話があり、出荷があるので食事が終われば連絡して下さいと伝えられることが通常であった・・・というのであるから、仮に、本件疾病発症時に原告が主張するとおり、昼食時に同僚から別の同僚に道案内をするよう頼まれたり、ほかの車両が次々に出ていき配送の順番が迫ってくるという状況があったとしても、そのような状況は、日常の業務を遂行する中で特段珍しい状況とは解されず、また、配車係から原告に対する配送指示がなされた場合には、原告において配車係に食事中であるなどと状況を説明するなどして、適宜の対応をすればよいといえるのであって、仮に上記状況による何らかの精神的な負荷があったとしても、その程度は、医学的経験則に照らし、脳血管疾患の発症の基礎となる血管病変等を、自然的経過を超えて著しく増悪させ得ることが客観的に認められる負荷とは認められない。このことは、原告が、ほかの運転手に対し、道順を教示することを依頼され、実際に弁当を食べながら道順を説明していたことによって異なるものではない。」

「(2)肉体的負荷について」

「原告は、弁当を食べながら説明をしていた際に、食べ物がのど等に詰まったことで血圧が上昇し、血流の負担が脳に及んだ旨主張する。」

「しかし、仮に、原告が食べ物をのど等に詰まらせたとしても、運動失調、言葉のしゃべりづらさ、嘔吐等が生じるのは被殻からの出血による典型的な臨床症状・・・であることを踏まえると、原告が本件疾病発症の際に食べ物をのど等に詰まらせたことは、被殻からの出血により現れる症状(本件疾病の結果生じた症状)と解され、原因としての『異常な事態』ということはできない。」

「なお、原告が食べ物をのど等に詰まらせたことが、本件疾病の結果生じた症状ではなく、ほかの運転手に対して道順の説明をしている際にたまたま生じたものであったとしても、それは日常生活において一般的に生じ得る出来事であって、上記出来事が医学的経験則に照らし、脳血管疾患の発症の基礎となる血管病変等を、自然的経過を超えて著しく増悪させ得ることが客観的に認められる程度の強度の肉体的負荷であったと評価することはできない。」

「(3)リスクファクターについて」

「原告が発症した本件疾病は、右被殼出血であるところ、このような脳血管疾患の発症は、血管病変が前提となるものである。そして、血管病変は短期間に進行するものではなく、長い年月をかけて徐々に進行するものであるが、その進行には、遺伝のほか生活習慣や環境要因の関与が大きく、脳出血のリスクファクターの中では、高血圧が特に関係が深いとされている・・・。」

「しかるところ、原告は、本件疾病発症以前から高血圧の既往症を有しており、赤城医院に通院していたものの、本件疾病発症以前に投薬を受けたのは平成29年2月2日が最後であって、その後、本件疾病発症までの間には通院していなかったものである・・・。また、原告は、平成28年2月又は3月以降から平成29年2月2日までの間は、二日に1回の割合で薬を服用していたというのであるが、原告に処方された薬剤はいずれも1日1回服用することとされているものであり、現にP9医師は、原告に対し、各薬剤の説明文書にも記載されているとおり、1日1回服用するとの指示の下に薬剤を処方していた・・・。しかるに、原告は、これに反して二日に1回の割合で服用していたというのである。

そうすると、原告は、平成28年2月又は3月以降、本件疾病発症までの間に、適切な服用をしていなかったこととなるが、そのような服用状況では、充分な薬効が生じないこととなるというほかない。なお、原告は、高血圧の薬は二日に1回服用すれば問題ない旨主張するが、独自の見解であって、採用の限りでない。

そして、これらの事情を踏まえて高血圧が本件疾病発症の原因であるとする医師らの意見・・・はいずれも整合的で十分に信用することができるということができる。

「(4)小括」

「以上検討してきたとおり、原告について、医学的経験則に照らし、脳血管疾患の発症の基礎となる血管病変等を、自然的経過を超えて著しく増悪させ得ることが客観的に認められる程度の出来事のないこと、原告が本件疾病発症以前から高血圧の既往症を有しており、医師の指示どおりに服薬等していなかったこと、高血圧が本件疾病発症の原因であるとの医師の見解を踏まえると、高血圧という原告の既往症が本件疾病の発症につながった主な原因であるというべきである。

3.十分な精神的負荷・肉体的負荷が認定できた事案ではないが・・・

 本件は脳血管疾患を発症させるのに十分な精神的負荷・肉体的負荷が認定できた事案ではありません。つまり、リスクファクターがあるから負けたという事案ではありません。リスクファクターが業務起因性を検討するにあたっての独立の考慮要素とされている点には留意しておく必要があります。

 また、個人的に日常生活で見聞きする限り、医師が処方した常備薬を指示通りに服薬していない方はそれほど少なくはないように思われます。これが平均的労働者から逸脱したリスクファクターであるかのように扱われている点にも注意が必要です。健康を守るためにも、いざという時に労災を申請する妨げにさせないためにも、医師の処方薬は指示通りに服薬しておくことが大切です。