弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

アカデミックハラスメントと教育的指導の境界線-きついメッセージ・チャットワークからの除外

1.アカデミックハラスメント

 大学等の教育・研究の場で生じるハラスメントを、アカデミックハラスメント(アカハラ)といいます。

 セクシュアルハラスメント、マタニティハラスメント、パワーハラスメントとは異なり、法令上の概念ではありませんが、近時、裁判例等で扱われることが多くなってきています。職務上、大学教員・大学職員の方の労働問題を取り扱うことも多いことから、個人的に関心を持っている領域の一つです。

 パワーハラスメントと業務上の指導との区別が問題になるのと同じように、アカデミックハラスメントが不法行為を構成するのか否かの判断にあたっては、しばしば教育的指導との区別が問題になります。近時公刊された判例集に、この境界線を知るうえで参考になった裁判例が掲載されていました。宇都宮地判令3.9.9労働判例ジャーナル117-60 国立大学法人山形大学事件です。

2.国立大学法人山形大学事件

 本件で被告になったのは、山形大学及び山形大学大学院を運営する国立大学法人(被告大学法人)とその准教授の方(被告c)です。

 原告になったのは、自殺した学生dの父母です。dが自殺したのは、被告cからのアカデミックハラスメントが原因であると主張し、被告らに対して損害賠償を請求する訴訟を提起したのが本件です。

 本件で問題視された行為は、チャットワーク上に投稿された四つのメッセージと、チャットワークからdを外した行為です。

 各行為は次のように認定されています。

「被告cは、同日(平成28年11月8日)午前8時6分、『やるという以上はしっかりやって欲しいところです。やる!やる!といっても,実際はやらない学生と付き合うのも疲れました。』とのメッセージを投稿した(以下『本件行為〔1〕』という。)」

「被告cは、同日(平成28年11月12日)午後3時51分『9/27に大人として対応しましょうということを伝えていたと思います。急な事態ではなく事前に予定されていたことであれば連絡があって然るべきでは?そういうことに関する「報告、連絡、相談」が出来ないというのは大人として如何なものかと思います。研究室配属を軽く考えているようで、非常に残念です。私事での欠席であれば、それに合わせることは理由になりませんので、dくん、gくんとだけ進捗確認をします。色々事情はあるのかも知れませんが自己都合での欠席や報告書の未提出というのは、自身の権利を放棄することだと理解してください。』とのメッセージを投稿した(以下『本件行為〔2〕』という。)。」

「被告cは、平成29年1月25日午後3時55分から午後4時25分にかけて、本件チャットワーク1において、『報告がない、研究室にも来ないということなので、化学英語2と物質化学工学実験4の単位は必要ないと理解しておきますね。』、『てことになると、留年なのでやることちゃんとやったらどうですか?留年したいなら、それでもいいですが。』、『ということで、やる気のある人(単位が必要な人)は、どうして大学来ないのか(報告しないのか、期限を守れないのか、いい加減な内容か)、今後どうするのかをしっかり説明して下さい。はじめにも言いましたが、大人の対応して下さい、もう成人しているんだから。』とのメッセージを投稿した(以下『本件行為〔3〕』という。)。」

「被告cは、平成29年1月31日午前8時17分、本件チャットワーク1において、『実験4と英語2のラボ内報告書の提出期限は今日です、念のため。17時までに提出されなければ、単位は不要と判断します。』とのメッセージを投稿した。(以下『本件行為〔4〕』という。)。」

「被告cは、平成29年2月2日、d及びfを本件チャットワーク2の構成員から外した(以下『本件行為〔5〕』といい、本件行為〔1〕から本件行為〔4〕までと併せて『本件各行為』という。)。」

 このメッセージの8日後である平成29年2月10日頃、dは自殺により死亡したとされています。

 裁判所は、次のとおり述べて、本件各行為の違法性を否定しました。

(裁判所の判断)

「本件行為〔1〕に係るメッセージは、これまでに接してきた口先だけで積極的に研究に取り組まない学生についての愚痴を言う形でそれを述べることが教育的観点から適当なものであるかどうかは措くとしても、その趣旨としては、d及びfから本件両科目についてしっかりと取組む決意が述べられたことを受けて、本件学生らに対し、本件両科目への積極的な取組みを促したものと認められる。」

「本件行為〔2〕に係るメッセージは、被告cが本件学生らの本件両科目の進捗状況を確認するための日程調整をした際に、火曜日の午後に所用がある旨回答したfに対し、予めその旨の連絡を受けていなかったことについて、自己都合で講義を欠席するものであるとして、これを叱責したものと認められる。この点、本件研究室では週報の提出によりその週の講義を出席扱いとしていたこと・・・を踏まえると、当然の叱責というべきものなのかは不明であるが、一応、シラバス上は『物質化学工学実験〈4〉』の開講は火曜日午後であったことからすると・・・、これについて著しく理不尽な叱責とまではいえないと解される。」

「本件行為〔3〕に係るメッセージは、『単位は必要ないと理解しておきますね』、『大人の対応して下さい、もう成人しているんだから』などの突き放した言い方によることが教育的観点から適当であったかは措くとしても、その趣旨は、本件両科目の成績に大きく関わる報告書等の提出期限が迫っているにもかかわらず、その提出もせず、連絡もしないdを含む本件学生らに対し、報告書等の不提出が本件両科目の単位取得や留年に関わる重大な問題であることを改めて注意喚起し、大学に来ない理由や今後どうするつもりであるかを説明するよう求めたものと認められる。」

「本件行為〔4〕に係るメッセージは、やはり、本件学生らに対し、本件両科目の報告書等の提出期限を改めて示し、その不提出が単位取得に関わる重大な問題であることを改めて注意喚起することにより、その提出を促す趣旨によるものと認められる。」

「上記・・・によれば、以前から被告cの言動をきついと感じている学生等の大学関係者が多く存在していたことが認められること、上記・・・によれば、仮配属後にdは研究室を変更したい旨を親族や友人に繰り返し述べていたことが認められること(もっとも、そもそも本件研究室を志望する順位は低く・・・、dが仮配属後の被告cのdに向けた言動とは関係ない部分で当初から本件研究室への仮配属自体に一定程度の不満を抱いていた可能性も否定できない。)に照らすと、被告cの言動はその単純な内容を超えた不安感、圧迫感を他人に与える雰囲気のものであることが多かった可能性が高く、dについても、被告cの本件各行為により、その一部については直接dに向けられたものではないとしても、一定の不安感、圧迫感を抱くに至った可能性は否定できない。

「しかしながら、本件行為〔1〕から〔4〕までは、上記・・・のとおり、その表現等が教育的観点から適当なものばかりであったかは疑問であるとしても、いずれについても、その内容は教育指導上一定の意味があるものであり、dの修学上の権利の実現を具体的に妨げ、あるいは、同人に義務のないことを行わせるような性質のものではなく、また、同人の人格を否定するものでもない。」

「また、本件行為〔5〕については、一般に、そのような行為によって、これを認識したdが報告書等を提出するに至り、あるいは、被告cに連絡をとろうとするに至るとは考え難く、他方、これにより、dが一定の疎外感を感じるであろうことは容易に想像できることから・・・、その真の狙いは奈辺にあるとしても、少なくとも、被告cは、dにそのような疎外感を与える結果となることを認識してこれを行ったものと認めることができ、そうすると、やはり教育的観点から適当な措置とは言い難いというほかないが、しかしながら、他に本件チャットワーク1等の通信手段が存在するのであるから、dの修学上の権利の実現を妨げるものとまではいえないし、同人に義務のないことを行わせるものではなく、同人の人格を否定する行動であるとまではいえない。」

「以上によれば、大学における学部生とその所属する研究室の指導教員かつその受講する必修科目の担当講師という、dと被告cの関係性を考慮しても、本件各行為は、いずれも、被告cがその立場あるいは権限を濫用又は逸脱して行ったものとはいえず、違法とはいえない。」

3.不必要にきつい言動になっていないか要チェック

 上述のとおり、裁判所は、悩みを見せながらも、本件各行為を違法であるとまではいえないと判示しました。言動に違法性が認められなかったことから、被告cがdの自殺に責任を負うことはありません。

 しかし、法的にどのように評価されるのかは別として、被告cの不適切な行為の後、dが自殺している事実は、重く受け止められる必要があるように思われます。

 学生は大人と子供の境目で、必ずしも大人と同じような精神的な強さを持っているわけではありません。過保護に扱う必要はないにしても、不必要にきつい言動をとらないよう注意することが望まれます。

 

外資系企業における管理監督者性-親会社外国法人からの指示・拘束・制約をどうみるか?

1.管理監督者性

 管理監督者には、労働基準法上の労働時間規制が適用されません(労働基準法41条2号)。俗に、管理職に残業代が支払われないいといわれるのは、このためです。

 残業代が支払われるのか/支払われないのかの分水嶺になることから、管理監督者への該当性は、しばしば裁判で熾烈に争われます。

 管理監督者とは、

「労働条件その他労務管理について経営者と一体的な立場にある者」

という意味であると理解されています。そして、裁判例の多くは、①事業主の経営上の決定に参画し、労務管理上の決定権限を有していること(経営者との一体性)、②自己の労働時間についての裁量を有していること(労働時間の裁量)、③管理監督者にふさわしい賃金等の待遇を得ていること(賃金等の待遇)といった要素をもとに管理監督者性を判断しています(佐々木宗啓ほか編著『類型別 労働関係訴訟の実務Ⅰ」〔青林書院、改訂版、令3〕249-250参照)。

 この管理監督者性の判断にあたり、外資系企業においては日系企業にはない問題があります。それは、親会社外国法人からの指示・拘束・制約をどのように考えるのかということです。

 外資系企業の日本法人の幹部は、日本法人の中では幹部として位置付けられていても、実体として親会社外国法人から強い指示・拘束・制約を受けているという場合が少なくありません。

 しかし、これはあくまでも別の法人からの指示・拘束・制約であり、当該幹部は日本法人によって、その権限や裁量に制限をかけられているわけではありません。 

 それでは、この親会社外国法人からの指示・拘束・制約を、日本法人の幹部の管理監督者性を否定するための根拠として活用することはできるのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令3.7.14労働判例ジャーナル117-42 スター・ジャパン事件です。

2.スター・ジャパン事件

 本件は、いわゆる残業代請求事件です。

 本件で被告になったのは、眼内レンズ及びその他の医療機器又は医薬品の製造、輸入、販売を目的とする合同会社です。米国法人であるスター・サージカル社(米国親会社)を統括会社として世界各国眼内レンズ等の製造及び販売をするスター・サージカル・グループのグループ企業であり、スイス連邦法人であるスター・サージカル・エージー社(スイス法人)の100%子会社として位置付けられていました。なお、スイス法人は米国親会社の100%子会社です。

 原告になったのは、被告で経理課長として職務に従事していた方です。管理監督者として時間外勤務手当等が支給されていなかったところ、このような取扱いは違法であるとして、時間外勤務手当等を請求する訴訟を提起したのが本件です。

 原告の方は、経理課における最上位の役職にあり、請求期間中の給与は、年収1080万円~1170万2220円で、被告内においては役員を含め7番目に高額でした。

 しかし、その権限や裁量は米国親会社によって強い制約を受けていました。

 これについて、被告側は、

「管理監督者該当性の考慮要素である『経営者と一体の立場にある』か否か、『担当する組織部分について経営者の分身として経営者に代わって管理を行う立場にあること』については、当該法人での経営との関係が問題となるのであって、(代表取締役や経営陣であっても影響を受け得ることになる)株主、取引先等の社外の者との関係性は問題とならず、法人単位で考えるほかない。」

「株主が法人である場合でも同じことであって、親会社の指示は、株主や顧客等からの指示からと同様に事実上それに拘束・制約される場面があっても、それは、たとえ『経営者』の立場であっても従わざるを得ないからであり、管理監督者該当性を考える上では、資本関係、契約関係に基づく要請や指示による制約は関係がなく、社内における権限・管理監督者該当性の問題と混同されてはならない。さもなくば、経営者でも株主の意向に従わざるを得ない場合、会社におよそ『管理監督者』が全くいないという一見して非常識な結論ともなりかねない。」

「本件では、米国親会社との関係が問題とされているが、原告と米国親会社との間に雇用関係がない以上、原告が指揮命令を受ける関係にない。むしろ、米国親会社から指示された事項を日本側で伝達して実行に移すのは原告の立場、職務であり、原告こそが部下に対し指揮命令すべき立場にあった。」

とし、管理監督者性を認定する妨げにはならないと主張しました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、原告の管理監督者性を否定しました。

(裁判所の判断)

「原告の経営への参画状況についてみると、原告は、経理課における最上位の役職である経理課長の地位にあるものの、多数の業務について米国親会社の承認を得る必要があり、大枠の方針のみならず借入契約の更新の方法といった個別具体的な業務についても米国親会社の指示を受けながら業務を遂行しているのであるから・・・、経営に関する重要事項の決定に対する実質的な関与の程度は大きいとはいい難い。また、被告において月1回開催されているマネージャーズ・ミーティングにおいて、各部門長による報告がなされ、売上目標やその達成状況、経費の処理方法、人事に関する事項等が共有されていたと認められるものの・・・、同ミーティングにおいて経営に関する重要な事項が決定されていたとか原告が重要事項の決定に大きく関与していたものと認めるに足りる証拠はない。」

(中略)

「原告の部下に関する採用権限についてみると、被告において経理課従業員を採用する場合は原告の意向を確認する運用がなされており、原告は、正社員の採用時期及び採用条件について意見を述べたり、派遣社員の候補者と面接し、C CFOに対し、同候補者を採用したい旨の意向を伝えたりしていることを踏まえると・・・、部下の採用に対し、一定の影響力を有していたとは認められる。もっとも、原告は、人事課から正社員の採用を打診されたのに応じて、採用条件を検討していたにもかかわらず、C CFOから、業務を外注するよう指示され、これが困難となるや派遣社員を採用するように指示されていることからも明らかなとおり・・・、従業員を採用するか否か、採用するとしてどのような就労形態(正社員か派遣社員か等)とするかについては米国親会社が主導して決定しており、具体的な採用活動も米国親会社から具体的な指示を受けながら進めていることを考慮すれば、原告の採用に対する権限や影響力は大きいものとはいえない。」

(中略)

「以上によれば、経営上重要な事項の決定、採用、人事考課、業務の割当て、労働時間の管理のいずれについても原告の権限や影響力は限定的なものであったといわざるを得ず、これに加え、原告の部下の人数は3ないし4名と少なく、原告の労働時間の中でマネジメント業務を行っている時間はわずかであり、原告は主として部下が担当する業務と同様の業務に従事していたと認められることを踏まえると・・・、原告は、労働条件の決定その他労務管理について経営者と一体的な立場にある者ということはできない。

なお、被告は、管理監督者該当性を考える上では、親会社による資本関係に基づく要請や指示による制約は関係がないし、本件において原告と米国親会社との間に雇用関係がない以上、原告が指揮命令を受ける関係にない旨主張するが、一般論として、実質的には業務についての裁量権がなく会社外部からの個別具体的な指示に基づき業務を行わなければならない者について、形式的に権限があることをもって管理監督者性を肯定すると、労働者を保護する労基法37条の規定を容易に潜脱できることになりかねないし、本件においては、原告は、B社長から、米国親会社(C CFO等)の指揮命令に基づいて業務を行うよう指揮命令を受けているとみることができるのであるから(実際、B社長は、各部門長らに対し、米国親会社責任者を直属の上司として直接報告し、指示・承認を仰ぐよう指示している・・・。)、原告の管理監督者該当性を検討するに当たっては、米国親会社との間における原告の実質的権限の内容を検討するのが相当であり、被告の主張は採用できない。

また、被告は、管理監督者該当性の判断に当たり親会社の指示による制約を考慮すると、経営者でも株主の意向に従わざるを得ない場合、会社におよそ『管理監督者』が全くいないという一見して非常識な結論ともなりかねない旨主張するが、経営者は、『労働者』(労基法9条)に該当しないことを理由に労基法37条の適用を受けないのであり、会社における労働者の中に管理監督者に該当する者がいなければならないというわけではないのであるから、被告の主張は採用できない。

(中略)

原告は労働条件の決定その他労務管理について経営者と一体的な立場にある者ということはできないし、原告には自己の労働時間についての裁量があったともいえないのであるから、原告の待遇について、給与が年収1080万円(月額90万円)ないし年収1170万2220円(月額97万5185円)と比較的高額であることを考慮しても、原告が管理監督者に該当するとは認められない。

3.金額が伸びやすい類型

 外資系企業の幹部職員の給与は比較的高額に設定されている例が少なくありません。また、時差がある中で外国法人と意思疎通を行うため深夜時間帯まで社内にいることが必要になるなどの事情から、労働時間も長くなりがちです。そのため、管理監督者性を否定できると、認容される時間外勤務手当等の金額も高くなる傾向にあります。本件でも、1523万0698円もの時間外勤務手当等とその遅延利息金の請求が認容されています。

 経済的利益が高額になりやすい類型でもあるので、管理監督者とされることに違和感を持っている方は、一度、弁護士のもとに相談に行ってみても良いのではないかと思います。もちろん、当事務所でご相談をお受けさせて頂くことも可能です。

 

解雇・雇止めの撤回の否定例-「問題があったことを認めて今後素直に改善するということであれば、受け入れを検討する」はダメ

1.解雇・雇止めの撤回

 解雇や雇止めが無効であると主張して、地位確認等を求める通知を出すと、使用者側から、解雇や雇止めを撤回するので働きに来るようにと言われることがあります。

 これが、真摯に判断を誤ったことを認め、労務提供を受け容れるということであれば、何も問題はありません。

 しかし、中には、敗訴リスクを警戒して一旦は解雇や雇止めを撤回するものの、クビにしたいという方針を変えることなく、粗を探し、より効力が否定されにくい形で改めて解雇や雇止めの意思表示を行うことだけを目的として、労務提供を受け容れようとする使用者もいます。

 こうした意図が窺われるとき、労働者側は難しい立場に立たされます。

 使用者側の言うとおり、職場復帰すると、一挙手一投足を監視され、問題があると直ちに注意・指導・懲戒処分を受けるといった、ストレスフルな環境のもとで働くことを強いられることになります。

 しかし、使用者側の意向を無視して地位確認・未払賃金請求訴訟を提起すると、

「こちらは労務提供を受け容れると言っているのに、労働者の側で勝手に働いていないだけであるのだから、賃金を支払う義務はない」

と反論されることになります。

 こうした二律背反を打開する方法を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令3.7.6労働判例ジャーナル117-48 スタッフマーケティング事件です。本件は、使用者側から復職に向けた打ち合わせの機会を申し入れがあったにも関わらず、就労を拒絶している事実に変わりはないとして、未払賃金請求を認容している点に特徴があります。

2.スタッフマーケティング事件

 本件で被告になったのは、労働者派遣業等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、平成30年7月頃、

期間を平成30年7月から同年9月末日までとして、

家電量販店における家電製品の販売促進等を業務内容とする労働契約(本件労働契約)を締結した方です(なお、本件労働契約は労働者派遣契約とはされていません)。

 本件労働契約は、5回に渡り更新を重ねられました。しかし、令和元年12月13日、被告は、原告に対し、令和2年1月以降、本件労働契約を更新しないことを内容とする意思表示をしました。これに対し、原告は、雇止めの無効を主張し、地位確認や未払賃金の支払を求める訴えを提起しました。

 本件の特色の一つは、提訴前に、被告から、復職に向けた打ち合わせの機会が打診されていたことです。被告は、復職に向けた打ち合わせの機会を活かさなかったのは原告だと指摘し、不就労が被告の責めに帰すべきであることを前提とする賃金請求は、その基礎を欠いていると主張しました。

 しかし、裁判所は、雇止めが無効であることを認定したうえ、次のとおり述べて、被告の主張を排斥しました。

(裁判所の判断)

「労働契約法19条により本件労働契約は更新されたものとみなされるところ、被告が本件雇止めにより原告の就労を拒絶している以上、原告は、民法536条2項により、本件労働契約に基づく賃金請求権を有するものと解される。」

「これに対し、被告は、令和2年2月13日、原告代理人に対し復職に向けた打合せの機会を設けることを申入れており、遅くとも同日以降は原告の就労は履行不能でなかった旨を主張する。しかし、証拠・・・によれば、当該申入れは、原告が『雇い止めに至る経緯で問題があったことを素直に認めて今後改善するということであれば、受け入れを検討する』、『自分は悪くないという態度で、気に入らないことがあるとかみつくという姿勢が改まらないのであれば受け容れられない』という内容であったものと認められ、結局のところ、原告が態度を改めなければ復職させない旨を申し入れたものというべきであるから、被告が原告の就労を拒絶している事実を左右するものではない。

3.問題があったことを認めて素直に改善ししろというのではダメ

 本件の原告は、次のような主張をしていました。

「被告は、原告代理人に対し、令和2年2月4日、原告の復職に向けた話を進められる旨を述べ、同月13日、復職に向けた打合せの機会を設けることを打診したにもかかわらず、原告がこれに回答することなく本件訴えを提起した旨を主張する。」

「しかし、被告の当該申出は、『雇い止めに至る経緯で問題があったことを素直に認めて今後改善するということであれば、受け入れを検討する』、『自分は悪くないという態度で、気に入らないことがあるとかみつくという姿勢が改まらないのであれば受け容れられない』というものであって、原告代理人が被告代表者にその具体的内容を尋ねても『言い出したらきりがない』と答えるのみであった。そのため、原告は、被告が実際に原告の復職を認める意図であるのか相当な疑問を抱き、話し合いにより解決するのは困難と判断して、本件訴えを提起したものである。

 事前交渉での使用者側の不適切な交渉態度が窺われる中での判断であり、

「問題があったことを認めて今後素直に改善するということであれば、受け入れを検討する」

という趣旨の受け答え一般に解雇・雇止めを撤回する効力が認められないといえるのかは未だ明確ではありません。

 それでも、変な条件、特に労働者側が非を認めることを条件とするかのような労務提供の受け容れ意思の表示について、解雇や雇止めの撤回として認められないと判示している点は、かなり画期的な判断だと思います。本裁判例は、提訴前の交渉段階における解雇・雇止めの撤回への有力な対抗手段になることが期待されます。

 

報酬月額80万円で他社の代表取締役に就任しても、就労意思が否定されなかった例

1.他社就労と就労意思

 解雇が無効とされた場合に労働者が労務を提供していなくても賃金を支払ってもらえるのは、

「債権者(使用者)の責めに帰すべき事由によって債務(労務提供義務)を履行することができなくなった」

と理解されるからです。

 この場合、

「債権者は、反対給付(賃金支払義務)の履行を拒むことができない」

とされています(民法536条2項本文)。

 しかし、

「労働者が、就労の意思又は能力のいずれかを失っている場合には、債権者の責めに帰すべき事由による履行不能とはいえない」

ため、解雇が無効とされるケースでも、就労意思・能力のいずれかを喪失した以降の賃金の支払を受けることはできません(佐々木宗啓ほか編著『類型別 労働関係訴訟の実務』〔青林書院、改訂版、令3〕379頁)。

 この就労意思の欠缺との関係で、しばしば他社就労が問題になります。

 解雇を言い渡され生活の糧が奪われれば、取り敢えず働いて生活費を得ようとするのは当然のことです。このことは裁判所も理解しており、ただ単に係争中に他社就労したからといって、就労意思が否定されることはありません。

 しかし、係争中の職よりも高い賃金を得て正社員として他社就労したような場合には、もはや旧勤務先での就労意思を喪失したとして、未払賃金の請求が認められないことがあります。

 このルールとの関係で、近時公刊された判例集に興味深い裁判例が掲載されていました。一昨日、昨日とご紹介させて頂いている、東京地判令3.6.23労働判例ジャーナル117-52 ディーエイチシー事件です。

2.ディーエイチシー事件

 本件で被告になったのは、化粧品の輸出及び製造販売等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、被告のヘリコプター事業部(本件事業部)で部長として勤務していた方です。日常的に周囲に暴言を吐き高圧的なパワーハラスメントを繰り返したことなどを理由に懲戒解雇されたことを受け、その効力を争い、未払賃金等の支払いを求める訴えを提起したのが本件です。

 本件の原告は懲戒解雇の後、航空事業等を業とする株式会社(ジャネット)の代表取締役に就任し、一時は月額80万円もの報酬を得ていました。

 このこととの関係で、本件では、懲戒解雇が無効であったとしても、原告には就労意思がなくなってしまっていたといえるのではないかが問題になりました。

 裁判所は、懲戒解雇を無効としたうえ、次のとおり述べて、就労意思は喪失されていないと判示しました。

(裁判所の判断)

「被告は、原告がジャネットの代表取締役に就任し、相当額の賃金を得ていたことから、少なくとも同就任時点で被告における就労の意思及び能力は失われていた旨主張する。」

「しかしながら、前記認定事実によれば、原告がジャネットの代表取締役に就任したのは、事業の手伝いを依頼されて本件業務委託契約を締結したヨナタンのP8から推薦を受け、ジャネットの筆頭株主である航空学園理事長のP11から依頼を受けたためであって、自ら積極的に望んで当該役職に就任したものではないこと、本件業務委託契約も1か月毎に更新する有期契約となっていたこと、他方のジャネット側としても、当時、ヘリコプター事業の営業活動を強化しようとしており(証人P13 1~2頁)、同事業について知識と経験が豊富な原告に対し、一時的であっても同社の代表取締役に就任するよう依頼する合理的理由があったことからすれば、原告が、恒久的にジャネットにおいて就労する意思で、当該役職に就任したものとは即断できない。

かえって、原告が当時、P2会長から約750万円の借金をしており、本件降格及び本件減給後はその返済が滞っていたこと、原告には家族もあり(原告本人12頁等)、生活の糧を得る必要があったこと、現に、本件懲戒解雇後まもなく、賃金仮払仮処分の命令を申し立てていることからすれば、原告は、当面の生活の糧を得るため、誘われるがまま他社の代表取締役に就任したとみる余地が多分にある。

そして、報酬額についてみても、前記認定事実のとおり、原告のジャネットにおける当初の報酬額は50万円であり、増額後の報酬額も80万円であって、被告における本件減給前の給与月額124万円ないし本件減給後の給与月額119万円と比較して、低額といわざるを得ない。

さらに、職務内容についても、前記前提事実のとおり、原告は、被告において、本件事業部長としてヘリコプター事業全般を統括し、その直接のレポートラインはP2会長であったところ、上記のような原告の被告における職務の内容並びに権限及び責任は、ジャネットにおける代表取締役としてのそれらと大きく異なるところはなかったものと推察される。

以上で検討したところによれば、原告が、ジャネットの代表取締役に就任したことで、被告における就労意思及び能力を喪失したものとは認められない。

3.給与額より低ければ相当額の報酬を得ていても就労意思は否定されない?

 代表取締役という高い地位についたこともさることながら、月額80万円と比較的高額の報酬が得ていたにも関わらず就労意思が否定されなかったことは、興味深い判断です。

 それだけで決まっているわけではないにしても、裁判所は、就労意思の有無について、絶対的な金額の多寡ではなく、係争中の労働契約における賃金額との比較で判断しているのかも知れません。

 

解雇後に作成された報告書、送信されたメールによるハラスメント(解雇理由)の立証が否定された例

1.解雇後に作成される陳述書、報告書等

 訴訟で解雇の効力を争っていると、使用者側から、原告労働者の勤務態度に問題があったことの証拠として、在職中の同僚労働者の供述をまとめた書面が提出されることがあります。書面は、報告書、陳述書、メールなど、色々な形がとられます。

 こういった書証は、解雇前に作成されたものであれば、解雇の意思決定の基礎にされたものとして、一定の意味を持ちます。

 しかし、紛争が勃発した後で作成されたものであれば、それほど強い証拠力(証拠としての価値)が認められるわけではありません。

 近時公刊された判例集にも、解雇後に作成、送信されていることを理由に、報告書、メールにより解雇の有効性を基礎付けることを否定した裁判例が掲載されていました。昨日もご紹介させて頂いた、東京地判令3.6.23労働判例ジャーナル117-52 ディーエイチシー事件です。

2.ディーエイチシー事件

 本件で被告になったのは、化粧品の輸出及び製造販売等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、被告のヘリコプター事業部(本件事業部)で部長として勤務していた方です。日常的に周囲に暴言を吐き高圧的なパワーハラスメントを繰り返したことなどを理由に懲戒解雇されたことを受け、その効力を争い、未払賃金等の支払いを求める訴えを提起したのが本件です。

 本件の被告は、パワーハラスメント等を立証するための証拠として、他の従業員らの報告書やメール等を書証として提出しました。

 しかし、懲戒解雇に作成されたものであったことから、裁判所は、次のとおり判示して、その証拠としての価値を否定しました。結論としても、懲戒解雇の効力は否定されています。

(裁判所の判断)

被告主張のパワーハラスメントや居眠りについては、これを認めるに足りる的確な証拠がない。被告は、この点に関する証拠として、本件事業部の他の従業員らの報告書(乙5~16)を書証提出するが、いずれも公開の法廷における反対尋問を経たものではなく、その客観的な裏付けとなる証拠も見当たらない。また、懲戒解雇当時に使用者が認識していなかった非違行為は、特段の事情のない限り、その存在をもって当該懲戒解雇の有効性を根拠付けることはできないと解されるところ、上記報告書の作成日付はいずれも本件懲戒解雇後であるから、これらの報告書の記載から直ちに本件懲戒解雇の有効性を基礎付けることはできない。被告が提出するその余のメール等の書証についても、本件懲戒解雇後に送信されたもの(乙27~29)や客観的裏付けを欠くもの(乙3、24)であるから、これらの証拠から直ちに本件懲戒解雇の有効性を基礎付けることはできない。

「加えて、前記認定事実のとおり、被告は、平成28年6月8日の会長面談時に、原告に対し、P10の退職に関して、退職勧奨はパワーハラスメントになるから気を付けないといけない旨の指導をしたことは認められるものの、それ以上に、原告の在職中、パワーハラスメントについて同人を指導していたと認めるに足りる的確な証拠はない。

「以上によれば、被告の主張するパワーハラスメント等の事実は、証拠上認定することができないか、仮にその一部が認定できるとしても、これに対する指導が十分にされたとは認められないから、本件懲戒解雇の有効性判断においてこれらを重視するのは相当でない。」

(中略)

「その他、被告がるる主張するところを考慮しても、被告が本件懲戒解雇の理由として挙げた事情は、いずれも懲戒解雇理由となり得ないか、仮になり得るとしてもこれを重視することが相当とはいえないものであり、本件懲戒解雇前に前記懲戒事由に関する原告の言い分を聴取するなどの手続を経ていないこと(証人P4 17~18頁、原告本人7頁、弁論の全趣旨)も踏まえれば、本件懲戒解雇は客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であるとは認められず、懲戒権の濫用として無効であるというべきである。」

3.紛争になってから作成される陳述書の類にそれほどの価値はない

 労働審判や訴訟で、使用者側から元同僚の大量の陳述書が出されると、その量や内容に圧倒され、意気消沈してしまう方は少なくありません。

 しかし、裁判用の資料として事後的に作成された文書であれば、見た目ほどのインパクトを有しているわけではありません(それなのに、なぜ使用者が膨大な時間と労力をかけてまで大量の陳述書を作成してくるのかは良く分かりませんが)。紛争後に作られた文書が多分に作文的要素を含んでいることは、裁判所も十分に理解しているため、あまり悲観的にならないことが肝要です。

 

懲戒処分としての降格-雇入れの際の初任給の決定に関する規定を根拠に基本給を減額できるのか?

1.懲戒処分としての降格

 「労務遂行上の懈怠や服務規律違反行為に対する制裁として、労働者の職位や資格を引き下げること」を「懲戒処分としての降格」といいます。(佐々木宗啓ほか編著『労働関係訴訟の実務Ⅰ』〔青林書院、改訂版、令3〕84頁参照)。

 懲戒処分としての賃金減額を行うには「懲戒の一方法として賃金を減額し得ることと、その要件と効果について、就業規則に定めが置かれている必要があり、その定め方としては、『減給』により賃金減額をすることのほかに、懲戒処分たる『降格』に伴って賃金減額をすることを定めておくこともあろう」と理解されています(前掲『労働関係訴訟の実務Ⅰ』84頁参照)。

 それでは、降格によって基本給を減額するにあたり、就業規則上の根拠として、初任給の決定に関する規定を流用することは許されるのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり、参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令3.6.23労働判例ジャーナル117-52 ディーエイチシー事件です。

2.ディーエイチシー事件

 本件で被告になったのは、化粧品の輸出及び製造販売等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、被告のヘリコプター事業部(本件事業部)で部長として勤務していた方です。

 平成30年5月1日付けでタイムカードの改竄を理由として、本件事業部の部長から次長へと降格する懲戒処分を受けました(本件降格)。

 これに伴い、

月額124万円(基本給104万円 役付手当20万円)であった賃金が、

月額90万円(基本給75万円、役付手当15万円)

へと引き下げられました。

 その後、更に別の理由で懲戒解雇されたことを受け、原告の方は、本件降格や懲戒解雇が無効であると主張して、降格前の賃金を基に、雇用契約に基づく賃金の支払を求める訴えを提起しました。

 本件降格の効力との関係で言うと、役付手当に関しては、

部長 月額20万円

次長 月額15万円

と明記された就業規則の規定がありました。

 しかし、基本給に関しては、賃金規程上、

「従業員雇入れの際の基本初任給は、本人の学歴、能力、経験、技能、作業内容などを勘案して各人ごとに決定する。」(第3条)

という規定しか定められていませんでした。

 本件では、この規定を根拠に、基本給を減額することの可否が問題になりました。

 裁判所は、この問題について、次のとおり判示し、基本給減額の効力を否定しました。

(裁判所の判断)

「使用者が労働者を懲戒することができる場合において、当該懲戒が、当該懲戒に係る労働者の行為の性質及び態様その他の事情に照らして、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、懲戒権濫用として無効となり得る(労働契約法15条)。」

「前記前提事実及び認定事実によれば、被告は、部下にタイムカードの代行打刻を行わせていたことを理由として、原告を本件事業部の部長から次長に降格する懲戒処分(本件降格)を行っているところ、被告では、就業規則・・・には、出退社の際は本人自ら所定の方法により出退社の事実を明示する旨規定されていたのであるから、原告の上記取扱いは被告の上記就業規則の規定に違反し、被告による従業員の労働時間管理を妨げるものとして、被告の業務に支障を生じさせ得るものであったというべきである。そして、前記前提事実及び認定事実のとおり、本来、部下らに規則を守らせるべき本件事業部長である原告自らが部下に上記代行打刻を行わせていたこと、本件事業部の他の従業員らにも同様の代行打刻がみられ、被告として本件事業部内の規律を正す必要があったことも考慮すれば、後に判示する原告の不利益に鑑みても、被告が本件降格を行ったことは、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められないとはいえず、本件降格が懲戒権の濫用として無効となるものとは認められない。」

「これに対し、原告は、上記代行打刻は、原告を含む本件事業部の従業員が直行又は直帰したときに他の者が打刻の代行をしていたものにすぎず、打刻された始業時刻及び終業時刻自体は概ね正確であるから、本件降格は相当性を欠く旨主張する。しかし、前記前提事実によれば、就業規則には、直行直帰の際には所属長の許可を得て、所定の届出を提出して行うべきものと規定されているところ、原告の上記取扱いは当該就業規則の規定に反するものであり、従業員らの直行直帰の管理を含めた被告の労務管理に支障を生じさせ得るものであるから、仮に打刻された始業時刻及び終業時刻が概ね正確であるとしても、そのことをもって本件降格が社会通念上相当性を欠き、懲戒権濫用として無効となるものとは認められない。」

「よって、本件降格は有効である。」

「次に、本件降格が有効であるとしても、本件減給については別途労働契約上の根拠が必要であるところ、前記前提事実及び認定事実によれば、役付手当については、賃金規程において、部長は月額20万円、次長は月額15万円と明確に定められているから、本件降格に伴い、賃金規程の上記規定に従って役付手当を減額したことは、有効である。」

「他方、基本給については、原被告間の雇用契約書にはその減額の根拠とすべき規定はなく、賃金規程にも、第3条に雇入れの際の初任給の決定に関する規定があるのみで、雇用継続中の基本給の減額を基礎づける規定は見当たらない。そうすると、本件減給のうち基本給の減額については、労働契約上の根拠なくされたものといわざるを得ず、これに対する原告の同意も得られていない以上、無効といわざるを得ない。

「以上によれば、本件降格及び本件減給のうち役付手当の減額については有効であるが、本件減給のうち基本給の減額については、労働契約上の根拠を欠き無効である。」

3.雇用継続中の基本給減額規定がなければダメ

 上述のとおり、裁判所は、雇用継続中の基本給の減額を基礎づける規定がなければ減給はできないとして、初任給の決定に関する規定の流用を否定しました。

 個人的な実務経験の範囲内で言うと、賃金規程に雇用継続中の基本給減額を基礎付ける規定がない会社は、意外とあります。本件は懲戒処分としての降格に伴う基本給減額の効力を争う上で参考になります。

 また、タイムカードの打刻代行について、始業時刻及び終業時刻が概ね正確であっても降格が許容されると判示されている点も印象的です。降格の可否については明確な規範がなく、事件の見立ては相場感覚に依存しています。公表裁判例になる事案が限られているため、部長⇒次長(手当5万円減)の降格の可否という点においても、本件は有益な示唆を与えてくれます。

 

基本給の固定残業代への振り替え-疑問点はメールに残しておくこと

1.基本給の固定残業代への振り替え

 実務上、かなり強引に固定残業代が導入される例を目にすることがあります。その一例が、基本給を固定残業代に振り替える方法による固定残業代の導入です。これは、基本給30万円を、基本給20万円と固定残業代10万円に分割するといったような形で行われます。

 それまで残業すれば時間外勤務手当等が支払われていたのに、固定残業代の導入により、残業をしても時間外勤務手当等が支払われなくなるので、こうした形での固定残業代の導入は、明らかに労働条件の不利益変更に該当します。そのため、一定の厳格な要件のもとでしか許容されることはありません。

 それでは、法律で定める要件を無視し、強引に基本給の一部を固定残業代に振り替えられた場合、納得のいかない労働者は、どのような対応をとればよいのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時掲載された判例集に掲載されていました。東京地判令3.6.16労働判例ジャーナル117-60エディット事件です。

2.エディット事件

 本件で被告になったのは、出版物・印刷物の企画・制作等を業とする株式会社です。

 原告になったのは、被告との間で期間の定めのない労働契約を締結し、記事の作成や出版物の制作等に関する業務に従事してきた方です。それまで42万5000円であった基本給を、平成31年4月以降、基本給32万2300円、固定残業代11万2700に分割されたことを受け、時間外勤務手当等を請求する訴訟を提起したのが本件です。

 本件では、基本給の固定残業代への振り替えについて、原告の同意の有無が争点になりました。

 この問題について、裁判所は、次のとおり述べて、同意はなかったと判示しました。

(裁判所の判断)

「被告は、新就業規則による1日の所定労働時間の変更、固定残業代制度の導入及び基本給の減額について、原告を含む被告の労働者全員の同意を得ており、原告との2回の個別面談でも特段の異議は出なかったと主張し、被告代表者はこれに沿う供述をする。」

「しかし、上記被告の主張を裏付ける確たる証拠はない。被告代表者が平成31年3月27日に原告と個別面談をした際、メモに『みなし残業OK』と記載しているが、原告が基本給に固定残業代を上乗せする制度であれば了承すると述べたと供述していることを踏まえると、上記メモは被告の主張を裏付けるものとはいえない。かえって、新就業規則の制定前後を通じて原告が新就業規則の内容に疑問を呈していることからすると、新就業規則による1日の所定労働時間の変更、固定残業代制度の導入及び基本給の減額について原告の同意があったとは認められない。

「したがって、被告の主張は採用できない。」

3.疑問点をメールに残しておいたことが効いた

 裁判所は原告が固定残業代を導入するための就業規則の改訂の前後に疑問を呈するメールを送信していたことを根拠として、同意の存在を否定しました。

 原告が送信したのは、平成31年3月14日の

「月給が変わらず、労働時間が増えることは、そもそも、労働条件の不利益変更にならないのか?」

というメールと、同年8月5日の、

「就業規則の件、弁護士に話を聞きました。私の場合、基本給が10万円超下がることについて、不利益変更の可能性がある、という話でした。総額で支給額が変わっていないから問題ない、ということではないとのことです。」

とのメール送信を指しています。

 この程度の疑問を呈するメールでも、同意の存在を否定する証拠としての効力があるとされた点は、意義のある判示だと思います。

 賃金の減額に関しては、同意の外形的事実があったとしても、

「当該変更により労働者にもたらされる不利益の内容及び程度、労働者により当該行為がされるに至った経緯及びその態様、当該行為に先立つ労働者への情報提供又は説明の内容等に照らして、当該行為が労働者の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点からも、判断されるべきものと解するのが相当である」(最二小判平28.2.19労働判例1136-6山梨県民信用組合事件)

と理解されており、その効力を否定できることがあります。

 しかし、こうした法理を適用するだけではなく、同意の外形的事実の認定自体も、裁判所は慎重に判断する傾向にあります。

 そのため、事後になったとしても、疑問点や異議がある場合には、そのことを証拠化しておくことが意味を持ちます。