弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

余計な気は利かせない方がいい-猪の死骸を撤去しようとして飲酒運転をした公務員が退職金の97%を喪失した例

1.懲戒免職処分と退職手当との関係

 国家公務員退職手当法は、懲戒免職処分等を受けて退職をした公務員に対しては、退職金の全部又は一部を支給しない処分を行うことができると定めています(国家公務員退職手当法12条参照)。

 条文の文言上は「全部又は一部を」支給しない処分を行うことが「できる」とされているものの、運用上、懲戒免職処分等を受けた公務員に対する退職手当は、全部不支給が原則とされています(昭和60年4月30日総人第261号 最終改正 令和元年9月5日閣人人第256号「国家公務員退職手当法の運用方針」参照)。

https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/s600430_261.pdf

 ただ、退職手当の不支給は、不利益性の度合いが強いこともあり、全額不支給にするためのハードルは、懲戒免職処分を行うためのハードルよりも高いと考えられてます。

 上記は国家公務員に関するルールです。しかし、多くの地方公共団体が国の方針に準拠して条例を作っているため、このルールは殆どの地方公務員にもあてはまります。

 昨日は、猪の死骸を撤去しようとして飲酒運転をした公務員が懲戒免職処分を受けた事案を紹介させて頂きました(鳥取地判令3.1.22労働判例ジャーナル109-12 鳥取県事件)。この事件は懲戒免職処分の効力のほか、退職手当の支給制限処分の適法性も争われました。

 懲戒免職処分が適法だと判断されたことは、昨日お話ししたとおりです。それでは、退職手当の支給制限処分の効力はどのように理解されたのでしょうか?

2.鳥取県事件

 本件は飲酒運転を理由に懲戒免職処分と退職手当支給制限処分を受けた公務員が原告となって、各処分の取消を求めて裁判所に出訴した事件です。

 平成30年10月5日(金)午後5時30分ころ、仕事を終えた原告は、帰宅して200ミリリットル入りの焼酎2本をストレートで飲酒しました。

 その後、職場職員で構成されているLINEグループのトークを通じ、C主事から、

「181号根雨方面より行くと赤松産業手前の左端に猪が死んでいるので、また回収をお願いします。」

というメッセージが流れてきました。

 その後、C主事からは、更に、

「Aさん(原告)が明日朝回収されます。」

とのメッセージが流れてきました。

 更にその後、Ⅾ係長から

「国道181号武庫で軽自動車の事故。約100mの区間で片交に。警察対応中。油出勤はないでうす。」

「武庫の件ですが、警察に確認したところ、特に日野県の私有の対応は扶養のことです。」

 そのメッセージも流れてきました。

 しかし、同日午後9時38分ころ、原告は

「今から死骸撤去します。」

とのメッセージを送信した後、自宅を出て、自家用軽トラックを運転し、自家用軽トラックで現場に赴きました。

 同日午後10時11分ころ、原告は、警察官から声をかけられ、飲酒検知検査を受けけました。飲酒検知検査の結果、原告の呼気からは、1リットルあたり0.8ミリグラムという呼気が計測されました(本件酒気帯び運転)。

 酒気帯び運転で検挙された原告は、同日午後11時35分ころ、LINEグループに

「飲酒で、捕まりました。」とのメッセージを投稿したうえ、翌16日未明(午前0時9分ころ)、職場の上司である課長にも、酒気帯び運転で検挙されたことを電話報告しました。

 実態を確認した鳥取県知事は、酒気帯び運転で検挙されたことを理由に、原告を懲戒免職処分にしました。また、解雇予告手当相当額を控除した967万3618円に相当する退職手当(本来の額の97%相当額)を不支給とする退職手当支給制限処分を行いました。

 裁判所は、懲戒免職処分の効力を認めたうえ、次のとおり述べて、退職手当支給制限処分の適法性も認めました。

(裁判所の判断)

「本件運用方針(鳥取県の退職手当に関する条例の運用方針)は、懲戒免職処分を受けた者に対しては、一般の退職手当等の全部を支給しないこととすることを原則とした上で、一般の退職手当等の一部を支給しないこととする処分にとどめることを検討する場合は、本件条例17条1項に規定する「当該退職をした者が行った非違の内容及び程度」について、

〔1〕停職以下の処分にとどめる余地がある場合に、特に厳しい措置として懲戒免職等処分とされた場合、

〔2〕懲戒免職等処分の理由となった非違が、正当な理由がない欠勤その他の行為により職場規律を乱したことのみである場合であって、特に参酌すべき情状のある場合、

〔3〕懲戒免職等処分の理由となった非違が過失(重過失を除く。)による場合であって、特に参酌すべき情状のある場合、

〔4〕過失(重過失を除く。)により禁錮以上の刑に処せられ、執行猶予を付された場合であって、特に参酌すべき情状のある場合に限定すると定めている。」

「本件懲戒免職処分の理由となった非違は、本件酒気帯び運転であり、原告は、本件酒気帯び運転で罰金刑を受けたのみであるから・・・、上記〔2〕の場合及び〔4〕の場合に該当しないことは明らかである。したがって、以下、上記〔1〕の場合又は〔3〕の場合に該当するかを検討する。」

「・・・原告は、本件酒気帯び運転時、酒気帯び運転の基準値の5倍以上のアルコールを体内に保有しており、その前後にも冷静かつ的確な判断ができていなかったことが認められる上、原告が走行した道路が国道であったことやその走行距離がそれなりに長いことからすれば、本件酒気帯び運転は、交通事故を発生させる危険性のある、悪質な態様で行われていたものと評価できる。また、・・・既に検討したとおり、原告は、自身が飲酒した量や時間帯については認識しつつ、酔いが醒めており、酒気帯びにはならないであろうと軽信したに過ぎず、運転時に飲酒運転になると考えていなかったことが原告の責任を低減させるような事案ではない。」

「前記・・・で認定説示したところを踏まえると、本件懲戒免職処分の理由となった非違の内容及び程度に照らして、『停職以下の処分にとどめる余地がある場合に、特に厳しい措置として懲戒免職等処分とされた場合』(上記〔1〕)に該当するとは認めることができない。」

「・・・既に検討したとおり、原告は、自ら警察官を発見し、声を掛けたものと認められることからすれば、本件酒気帯び運転の際、原告は、自身が酒気を帯びていないものと考えていたことがうかがわれるが、その供述内容に照らせば、自身が飲酒した量や時間帯については認識しつつ、酔いが醒めており、酒気帯びにはならないであろうと軽信したに過ぎず、飲酒運転の基礎となる事実の認識が全く欠けていたわけではないというべきであるから、本件酒気帯び運転は故意によるものであったといえ、過失によるものではない。」

「仮にこれを過失とみるとしても、被告においては、職員による飲酒運転防止のために、いかなる理由でも飲酒運転は絶対にしてはならないことなどを周知する指導やメールによる通知が再三行われており、原告も日常的に運転業務に携わる職員として、交通法規の遵守について意識すべき立場にあり、実際に被告から送られてくるメールの内容を確認していたこと、本件酒気帯び運転当日は、敢えて強い酒を飲もうと考え、アルコール度数25度の焼酎400ミリリットルをストレートで飲んでいたことなどからすると、飲酒から約4時間程度で酔いが醒めたと考えたことにはおよそ合理性がなく、自身が酒気帯び運転ではないと考えたことには重大な過失があるというべきである。」

「上記〔3〕については、非違が重過失ではない場合に限定されているから、本件は上記〔3〕の場合にも該当しない。」

「以上の次第で、本件懲戒免職処分に関しては、本件運用方針が一般の退職手当等の一部を支給しないこととする処分にとどめることを検討できるとする場合に該当しないため、解雇予告手当相当額以外の退職手当全額の支給を行わない旨の本件支給制限処分は、本件運用方針に則って行われたものということができる。」

「原告は、本件支給制限処分は、原告に有利に考慮すべき事情を無視してなされたものであり、違法である旨主張する。」

確かに、本件では、原告が、被告に採用されてから本件懲戒免職処分がされるまでの29年8か月にわたり被告の職員として勤務しており、懲戒処分歴はなく、勤務態度について特段の問題を指摘されることもなく、被告において一定の功績があったこと・・・や原告が本件酒気帯び運転により検挙された後には、速やかに本件職場の職員及び上司に報告を行っており、非違を隠蔽するような言動はとっていないこと・・・といった事情が存在する。

しかしながら、本件運用方針に従うと、これらの事情は、一定の要件(当該退職をした者が行った非違の内容及び程度について『停職以下の処分にとどめる余地がある場合』や『懲戒免職等処分の理由となった非違が過失(重過失を除く。)による場合』など)を満たした場合に、特に参酌すべき事情として考慮されることになり、一次的に考慮されなければならない事情とはされていない。また、・・・既に検討したとおり、本件においては、非違の内容及び程度、非違に及んだ経緯、公務の遂行及び公務に対する信頼に及ぼした影響など処分に当たって中心的に考慮すべき事項について、原告に有利にみるべき事情がなく、原告が指摘する上記各事情を考慮したとしても、原告に対する処分を減軽すべきであるという判断には至らない。

「したがって、本件支給制限処分に考慮不尽の違法がある旨の原告の主張は採用できない。」

(中略)

「以上によれば、本件支給制限処分は、合理性のある本件運用方針に則って行われたものと認められ・・・、その他の違法事由が存在したとも認められないから・・・、その処分が社会観念上著しく妥当を欠いて裁量権の範囲を逸脱し、又はこれを濫用したものとはいえず、原告による本件支給制限処分の取消請求には理由がないというべきである。」

3.約30年の功績が猪の死骸を撤去しようとしたことで吹き飛んでしまった

 本件の原告の方は、約30年に渡り懲戒処分を受けることもなく、功績を積み重ねてきていました。しかし、酒が抜けきっていない状態で自動車を運転して猪の死骸を撤去しに向かおうとしたばっかりに、1000万円近くの退職手当を不意にしてしまいました。帰宅後に職場のLINEなど見なければ職を失うことも、退職手当を受給できなくなることもなかったであろうことを考えると、人の運命が本当に簡単に狂ってしまうものであることを痛感させられます。

 本件のような裁判例もあるため、飲酒運転に対しては、くれぐれも注意しておくことが必要です。

 

 

余計な気は利かせない方がいい-猪の死骸を撤去しようとして飲酒運転をした公務員が懲戒免職になった例

 

1.飲酒運転と懲戒処分

 飲酒運転をした公務員は、かなり厳しい懲戒処分を受けることが珍しくありません。

 例えば、平成12年3月31日職職-68「懲戒処分の指針について」は、国家公務員の飲酒運転について、

「酒酔い運転をした職員は、免職又は停職とする。この場合において人を死亡させ、又は人に傷害を負わせた職員は、免職とする。」

というルールを定めています。

 同じようなルールは多くの地方公共団体でも採用されており、こうした規定に基づいて公務員が懲戒免職処分を受ける例は、決して少なくありません。これは、飲酒運転を原因とする悲惨な事故が相次いだことを受け、処分量定が過重されて行ったことに対応します。

 しかし、他の非違行為との比較において処分量定が極端に重くなった結果、その反動といえる動きも出ています。国・地方公共団体が行った懲戒免職処分が裁判所によって取り消される例は、相当数確認されています(第二東京弁護士会 労働問題検討委員会編『2018年 労働事件ハンドブック』〔労働開発研究会、初版、平30〕553-554頁参照)。

 飲酒運転に対する懲戒免職処分の効力は、必ずしも裁判例が安定していないため、その動向に注目していました。そうしていたところ、近時公刊された判例集に、飲酒運転を理由とする懲戒免職処分の効力が争われた裁判例が掲載されていました。鳥取地判令3.1.22労働判例ジャーナル109-12 鳥取県事件です。

2.鳥取県事件

 本件は飲酒運転を理由に懲戒免職処分と退職手当支給制限処分を受けた公務員が原告となって、各処分の取消を求めて裁判所に出訴した事件です。

 本件の特徴は、懲戒処分を受けた経緯にあります。

 平成30年10月5日(金)午後5時30分ころ、仕事を終えた原告は、帰宅して200ミリリットル入りの焼酎2本をストレートで飲酒しました。

 その後、職場職員で構成されているLINEグループのトークを通じ、C主事から、

「181号根雨方面より行くと赤松産業手前の左端に猪が死んでいるので、また回収をお願いします。」

というメッセージが流れてきました。

 その後、C主事からは、更に、

「Aさん(原告)が明日朝回収されます。」

とのメッセージが流れてきました。

 更にその後、Ⅾ係長から

「国道181号武庫で軽自動車の事故。約100mの区間で片交に。警察対応中。油出勤はないでうす。」

「武庫の件ですが、警察に確認したところ、特に日野県の私有の対応は扶養のことです。」

 そのメッセージも流れてきました。

 しかし、同日午後9時38分ころ、原告は

「今から死骸撤去します。」

とのメッセージを送信した後、自宅を出て、自家用軽トラックを運転し、自家用軽トラックで現場に赴きました。

 同日午後10時11分ころ、原告は、警察官から声をかけられ、飲酒検知検査を受けけました。飲酒検知検査の結果、原告の呼気からは、1リットルあたり0.8ミリグラムという呼気が計測されました(本件酒気帯び運転)。

 酒気帯び運転で検挙された原告は、同日午後11時35分ころ、LINEグループに

「飲酒で、捕まりました。」とのメッセージを投稿したうえ、翌16日未明(午前0時9分ころ)、職場の上司である課長にも、酒気帯び運転で検挙されたことを電話報告しました。

 実態を確認した鳥取県知事は、酒気帯び運転で検挙されたことを理由に、原告を懲戒免職処分にしました。

 本件で争われたのは、この懲戒免職処分の効力です。上述の経緯を考えると、最も重い処分量定である懲戒免職処分は行き過ぎではないかが問題になりました。

 この問題に対し、裁判所は、次のとおり述べたうえで、懲戒免職処分の効力は有効だと判示しました。

(裁判所の判断)

「原告は、当番の割当てもない執務時間外に飲酒したものであり、飲酒したこと自体には非難されるべき点は何もない。また、一般的に、道端に死骸が長時間放置されれば、腐敗したり、散逸したりすることが想定されるから、原告が猪の死骸をできる限り早く撤去した方がよいと考えたこと自体は誤りではなく、自己の都合のために本件酒気帯び運転を行ったわけでもないから、本件酒気帯び運転の動機は悪質ではなかったと評価することはできる。

「しかし、原告は、猪の死骸と交通事故との関連性をD係長やC主事に確認することもなく、本件投稿・・・の文面だけで猪の死骸と交通事故との間に関連性があると即断したものであるが、実際には両者に関連性はなかったこと・・・、原告が本件職場の上司から早急に死骸を回収するよう指示された事実はないこと・・・、本件職場においては、動物の死骸によって道路交通上の支障が生ずるような場合には、業者に死骸を道端によけるよう依頼する運用があったこと・・・などに照らせば、原告は、猪の死骸処理の緊急性及び原告自身が出動する必要性、緊急性を誤って評価し、本件酒気帯び運転に至ったといわざるを得ない。加えて、動物の死骸処理は、公務に当たり、それを目的とする本件酒気帯び運転も公務としての運転に当たるのであるから、上司から指示されたわけでもなく、原告の誤った独自の判断で飲酒運転に及んだという点について原告を擁護することはできない。

以上を踏まえると、本件酒気帯び運転の経緯に関しては、原告に対して相応の非難が妥当するというべきである。この経緯を原告に有利な事情として考慮すべきである旨の原告の主張は採用しない。

3.余計な気は利かせない方がいい

 LINEグループの投稿を見て、猪の死骸撤去に気を利かせようとしたばっかりに、原告は懲戒免職処分を受けることになってしまいました。

 こうした判断をみると、やはり、終業時刻後に、LINEやメール等は、できるだけ見ないようにし、万一見てしまっても、余計な親切心は発揮しない方がいいように思われます。

 

介護処遇加算手当(介護職員処遇改善加算金)を残業代の原資に充てることは許されるか?

1.介護職員処遇改善加算

 介護職の方の賃金については、以前から低く抑えられすぎているのではないかという問題が指摘されてきました。こうした指摘に応えるため、国は、

介護職員処遇改善加算

という仕組みを設けています(老発0316号 令和3年3月16日 厚生労働省老健局長「介護職員処遇改善加算及び介護職員等特定処遇改善加算に関する基本的考え方並びに事務処理手順及び様式例の提示について」参照)。

【重要】令和3年度介護職員処遇改善加算及び介護職員等特定処遇改善加算について 東京都福祉保健局

https://www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp/kourei/hoken/shogu/reiwa3_shogu_keikakusho.files/vol935.pdf

 これは、大雑把に言えば、介護職員の賃金を改善するために事業主に交付金を支給すると言う仕組みです。

 加算金を介護サービス事業者等が受け取るにあたっては、

「処遇改善加算等の算定額に相当する介護職員の賃金・・・の改善・・・を実施しなければならない。」

「賃金改善は、基本給、手当、賞与等のうち対象とする賃金項目を特定した上で行うものとする。・・・また、安定的な処遇改善が重要であることから、基本給による賃金改善が望ましい。」

とされています。

 それでは、この介護職員処遇改善加算金を、残業代の原資に充てることは許されるのでしょうか?

 確かに、残業代も人件費(賃金)には違いありません。しかし、残業代が払われるのは当然であり、残業代に充当することは、賃金水準の改善という制度趣旨にはそぐわないようにも思われます。

 近時公刊された判例集に、この論点を取り扱った裁判例が掲載されていました。松山地宇和島支判令3.1.22労働判例ジャーナル109-40 医療法人竹林院事件です。

2.医療法人竹林人事件

 本件で被告になったのは、診療所を開設、経営するとともに、介護保険法に基づく居宅サービス事業等を行う医療法人です。

 原告になったのは、被告との間で労働契約を締結し、被告の通所介護施設で介護士として勤務していた方2名です。

 被告では介護職員処遇改善加算金を原資とする「介護職員加算手当」が時間外勤務手当の一部として支給されていました。原告らは、介護職員加算手当の支給を時間外勤務手当の支払いとみることは違法であると主張し、被告に対し、未払い残業代等の支払いを求める訴えを提起しました。

 原告らが展開した理屈は、具体的に言うと、次のとおりです。

(原告の主張)

「介護職員処遇改善加算制度は、介護に伴う重労働を考慮して、介護職員の待遇改善のために介護事業者に介護報酬に加えて補助金が支給される制度であるから、この補助金は基本給等の増額に使用されるべきもので、この補助金を使用者が本来負担すべき時間外勤務割増賃金の原資の一部に充てることは、同制度の趣旨を逸脱するものであり無効である。」

 これに対し、裁判所は、次のとおり述べて、原告の主張を採用しました。

(裁判所の判断)

介護職員処遇改善加算の制度は、介護サービスに従事する介護職員の処遇、すなわち賃金水準の改善のために、介護事業者に対して支払われる介護報酬に加算して金員を支給するものであるから、実際に介護職員に支給される賃金水準が向上(改善)するように取り扱われなければならないのは当然である。

そうすると、介護事業者が本来当然に従業員(介護職員)に支給しなければならない時間外勤務割増賃金の支払原資に上記介護職員処遇改善加算金を充て、他面においてその分だけ時間外勤務割増賃金の負担を実質的に免れるのは、従業員の賃金水準を向上させることにつながらないから、介護職員処遇改善加算の制度の趣旨に反するものといわなければならない。

介護事業者の介護職員処遇改善加算金の使用方法の判断にも、かかる限度で制約があるものというべきである。

「また、被告のように介護職員処遇改善加算金を原資にして従業員(介護職員)に介護処遇加算手当を毎月支給する場合、これは時間外勤務割増賃金(時間外労働割増賃金)の算定の基礎に組み込まれるべきものであるから(労働基準法37条5項、労働基準法施行規則21条4、5号参照)、かように支給される金員も加えて算定の基礎となる金額を算出し、この金額に所定の割増率を乗じて時間外勤務割増賃金の金額を算出すべきである。

「この点、被告は、事前に愛媛県に相談したとか、従業員から了解を得たから介護職員処遇改善加算金を時間外勤務割増賃金として支給しても差し支えない旨などを主張するが、被告が提出した愛媛県知事宛ての介護職員処遇改善実績報告書・・・中には、介護職員処遇改善加算金を時間外勤務割増賃金に充てた旨の記載はないし(なお、被告が本件訴訟で提出する特別な事情に係る届出書は、被告が愛媛県知事に対して一方的に支給の実態を説明するものにすぎず、これをもって監督当局の了解があったと認めることは困難である。)、被告が上記支給方法につき監督当局から了解等を得たことを認めるに足りる証拠はない。また、従業員の了解を得ても介護職員処遇改善加算の制度の趣旨に反する支給方法が許容されるものではないし、このほかに被告が主張する諸事情を考慮しても、従業員がする未払時間外勤務割増賃金の請求において、介護職員処遇改善加算金を原資とする介護処遇加算手当を時間外勤務割増賃金の算定の基礎とすることを何ら否定すべきことになるものでもない。」

「以上のとおり、被告の主張はこれを採用できないから、原告ら従業員の時間外勤務割増賃金の支給に介護職員処遇改善加算金を原資とする介護処遇加算手当を充てるのは相当でなく、本件においては、被告が支給する介護処遇加算手当を時間外勤務割増賃金の算定の基礎に加えて時間外勤務割増賃金を算出すべきである。

3.固定残業代の無効パターンの新類型

 上述のとおり、裁判所は、処遇加算手当が割増賃金であることを否定し、これを算定基礎賃金に含めたうえで、時間外勤務手当を算出すべきと判断しました。これは固定残業代が無効とされた場合と同じ処理になります。

 固定残業代が無効となる類型には、判別可能性がない場合、対価性が認められない場合など種々の類型がありますが、本裁判例により、原資が賃金水準改善のための公的資金である場合という類型が追加されたことになるのではないかと思います。

 これは私の知る限り従前なかった無効類型であり、本判決は新類型を追加する裁判例として注目されます。

 

代表取締役が同業他社の業務に従事することを知っていても副業が許可されたことにはならないとされた例

1.副業の推進

 平成29年3月28日、内閣官房の「働き方改革実現会議」が「働き方改革実行計画」という文書を発表しました。

働き方改革の実現 | 首相官邸ホームページ

http://www.kantei.go.jp/jp/headline/pdf/20170328/01.pdf

 この文書は、副業・兼業について、次のように位置づけています。

「副業や兼業は、新たな技術の開発、オープンイノベーションや起業の手段、そして第2の人生の準備として有効である。我が国の場合、テレワークの利用者、副業・兼業を認めている企業は、いまだ極めて少なく、その普及を図っていくことは重要である。」

 こうした政府の方針を受け、厚生労働省は、副業・兼業にの促進に関するガイドラインの制定やモデル就業規則の改訂など、副業を普及させるための取り組みを行っています。

副業・兼業|厚生労働省

 国策であることから、副業・兼業を行う労働者の数は、徐々に拡大することが見込まれます。こうした状況のもと、近時公刊された判例集に、興味深い判断をした裁判例が掲載されていました。東京地判平31.3.8労働判例1237-100 東京現代事件です。何が興味深いのかというと、副業の許可の有無について、副業に従事することを代表者代表取締役が知っていても、副業が許可されているとは認められないと判示してることです。

2.東京現代事件

 本件は解雇の効力が争われた事件です。

 被告になったのは、コンピューターのソフトウェアおよびハードウェア製品の製造・販売や、システム・エンジニアリング・サービス(SES)、ビジネス・プロセス・アウトソーシング(BPO)等の事業を行っていた株式会社です。

 原告の方は、平成22年1月以降、被告に雇用されて、ソフト開発営業、SES営業等に従事していた方です。平成29年6月29日に業績不振を理由に即時解雇されたことを受け、その効力を争い、地位の確認等を求め、労働審判の申立てを行いました。本件は労働審判が本訴移行した事件です。

 労働審判段階では、被告は、解雇事由として整理解雇しか主張していませんでした。しかし、訴訟になった後、原告がA社で兼業していたことを知ったとして、兼業禁止に違反したことを解雇事由として追加しました。

 A社は、SES、オフショア開発(システム開発に当たり、要件定義などの上流工程を日本で、詳細設計や開発を中国で行うもの)、BPOを行う株式会社で、被告と同業の関係にありました。原告は、平成26年12月1日から平成28年12月31日までの間、A社の取締役を務めていました。

 本件で特徴なのは、このことを被告の代表取締役が認識していたことです。平成26年5月1日から平成28年8月31日までの間、被告の代表取締役は、Bが務めていました。このBは、平成24年12月5日にA社が設立された当初から、A社の代表取締役も務めていました。つまり、原告が被告で勤務しつつA社でも働いていることを、知っている関係にありました。

 本件では、この事実が、副業の許可との関係で、どのように評価されるのかが判示されました。

 裁判所は、次のとおり述べて、副業の事実を代表者が知っていたところで、副業が許可されたとは認められないと判示しました。結論としても、副業禁止を理由にした解雇の効力を認めています。

(裁判所の判断)

「原告は、被告に在職中、その勤務時間を含め、同業者であるA社の取締役または業務委託の受託者として、A社の業務に従事し、しかも、被告の親会社の会長が来訪する際にはA社の話を控えるなどして、A社としての活動を秘していたことが認められる。そして、原告がA社の業務に従事することにつき、当時の被告の代表取締役であるBは、A社の代表取締役でもあったことから、知っていたとはいえるが、それをもって被告が原告の副業を許可していたとは認めがたい。したがって、原告は、会社の許可なくして他の会社の役員となり、また、原告の労働の報酬として金銭を受け取っており、就業規則第2章2条24号に反しているといえる。また、認定事実によれば、原告がA社の業務に関して被告のパソコンやメールアドレスを使用していたことが認められるところ、原告はA社の業務を被告の設備・備品を使用して行っていたから、これは、就業規則第2章2条6号に反するといえる。」

「原告は、A社では主にオフショア開発やパッケージの販売に関与したのみで有り、被告で行っていたSESの営業をA社のために行っておらず、被告の企業秩序に影響はなく、会社に対する労務の提供に格段の支障を生じさせていないから、服務規程に違反するような兼業には当たらないと主張する。しかしながら、上記認定事実によれば、被告の行うSESとA社の行う開発業務は、システムエンジニアを受注先に常駐させるか否かの違いがあるものの、それ以外の違いがあるとは認めがたく、競業関係を否定するほどの違いがあるか疑問である。そして、それを置いても、原告は、被告にきたBPOの営業メールや、ITエンジニアの紹介メールをA社に転送したり、被告の顧客からBPOのデモデータを取得しようとしたりするなどして、被告のBPOやSES事業の情報をA社のために利用することができるようにしているほか、被告のSES及びBPO事業に関する情報を入手することができる者(G)に対して、その情報をA社のために利用することを勧めていることが認められる。これらの事実からすると、原告自身がA社においてSESの営業を直接行っていないとしても、A社の業務のために被告の情報を提供しているから、被告に対する背信的行為であって、被告の企業秩序を乱すものであるし、原告が被告の職務に専念せず、他社から報酬を受領することにより、原告の労務提供に格段の支障が生じているといえる。したがって、原告の上記主張は採用しない。」

「また、原告は、原告の歩合給(成功報酬)が平成28年8月から激減したのは、原告以外の営業部員が退職したことにより同人等が担当していたSESが終了したためであり、原告の労務提供の怠慢ではないと主張する。しかしながら、原告の主張によれば、それらの営業部員が担当していたエンジニアは平成26年3月頃までは原告が担当していた者であり、営業部員の退職に伴って、その担当するエンジニアのSES業務がなくなるとはいえない。そうすると、原告がそれらのSESを引き継ぐこと及びそれらのエンジニアを派遣する案件を探すことが期待されていたが、それができなかったにすぎず、原告の営業成績が悪かったと認められる。」

「そして、被告は、本件解雇時には、原告がA社の取締役だったことや同社の業務に関し報酬を受け取っていたことを知らなかったところ、本訴訟になって、兼業禁止に反したことを解雇事由として主張しているが、兼業禁止に反した事実それ自体は、本件解雇時に存在したものであって、解雇権濫用の評価障害事実として主張することは可能である。また、被告が、本訴訟以前の労働審判において明らかにした解雇事由は整理解雇であるが、その主張は要するに被告の営業上赤字が続いたことにより、営業実績に比して給料が高額である営業部の廃止をしたとするものであるところ、このように営業実績が上がらない原因の一つには、唯一の営業部員である原告がA社の業務を行い、被告の業務に専念していないことが影響していることは否定できない。そうすると、本件解雇時に、被告が、兼業禁止違反の事実について認識していなかったとしても、その後の訴訟において、同事実を主張することは許されてしかるべきである。」

「原告は、弁論終結後に提出した書面において、服務規律違反である兼業禁止は就業規則上解雇事由と定められていないから、兼業禁止を理由に解雇することは認められないと主張する。しかしながら、被告の就業規則の定めからは就業規則上に規定された解雇事由が限定列挙の趣旨であると解することはできず、例示列挙にすぎないと認められるから、原告の主張は採用しない。」

「以上によれば、本件解雇は、原告に就業規則第2章2条6号及び24号に定められた兼業禁止違反に該当する事実が認められ、解雇の客観的合理的な理由があり、しかも、兼業の内容が就業時間に競業他社の業務を行うだけでなく、被告の業務で知り得た情報を利用するという被告への背信的行為であるという内容に照らせば、本件解雇は社会通念上も相当なものである。」

「したがって、本件解雇は権利濫用であるということはできず、有効である。」

3.意外と許可の認定は厳しい?

 本件の原告は、なぜか許可の存在を明示的に主張していなかったようですが、代表者が代表を務める別の会社で働いていて、何年も文句を言われなかった事実経過を踏まえると、副業の黙認(許可)があったと認定されても、それほどおかしくはなさそうな気はします。

 本件は、副業の許可の認定が、存外、厳しいものである可能性を示す裁判例として、意識しておく必要があるように思われます。

 

年収2500万円を提示されたのに、年収2000万円の契約書を作ってしまっても・・・

1.別法人から残額が支払われると思っていたという主張

 昨日、自己調達した防塵マスクを着用して診療にあたったことを理由に、医師が勤務開始初日に即日解雇された裁判例を紹介しました(さいたま地判令3.1.28労働判例ジャーナル109-2 医療法人社団和栄会事件)。

防塵マスクを着用して就労した医師を解雇することは許されるか? - 弁護士 師子角允彬のブログ

 この事件は、新型コロナウイルスの流行する世相を反映した事件という点で目を引くだけではなく、かなり珍しい判断がされている裁判例でもあります。

 何が珍しいのかというと、年収2000万円の雇用契約書しか取り交わしていなかった事案でありながら、年収2500万円を基準とした未払賃金請求が認められている部分です。

2.医療法人社団和栄会事件

 本件は勤務開始初日に即時解雇された医師が、解雇の無効を主張して、地位確認と未払賃金の支払を請求した事件です。

 被告になったのは、二つの医療法人社団です。

 一つは、所沢腎クリニックを開設・運営する医療法人社団である被告和栄会です。

 もう一つは、所沢第一病院を開設・運営する医療法人社団である被告秀栄会です。

 原告と被告和栄会は、人材紹介会社を通じ、

勤務先  所沢腎クリニック 及び 所沢第一病院

想定年収 2500万円

とする雇用概要確認書を作成しました。

 しかし、原告は、被告和栄会と

年収 2000万円

とする医師勤務契約書を取り交わしただけで、被告秀栄会とは何の書面も作成していませんでした。

 このことについて、原告は、年俸2500万円を、被告和栄会との関係で2000万円、被告秀栄会との関係で500万円と分割すると通告を受けていたからだと主張しました。勤務開始初日に解雇されたため、被告秀栄会との間では契約書の作成に至らなかっただけだという主張です。

 こうした事実関係のもと、原告は年俸2500万円を基準とした未払賃金を請求するため、二つの法律構成を主張しました。

 一つは、被告秀栄会との間で年俸を500万円とする契約が既に成立していたという主張です。雇用契約の成立には、書面によることが必要とされているわけではありません。事務的な書面作成が未了であっただけだという主張です。

 もう一つは、被告和栄会との間で年俸2500万円とする合意が成立していたとする主張です。形式的に被告秀栄会と年俸を分割することを認めはしたものの、年俸額に関する合意は飽くまでも2500万円だという考え方です。

 裁判所は、次のとおり述べて、一つ目の法律構成は否定しましたが、二つ目の法律構成を容れ、年俸は2500万円であると認定しました。解雇を無効としたため、結論として、被告和栄会には年俸2500万円を基準とする未払賃金の支払が命じられています。

(裁判所の判断)

-被告秀栄会との間での契約の成否について-

「前記認定のとおり、原告は、令和元年10月23日の時点で被告和栄会との間で雇用条件の概要を合意し、入職日である令和2年4月1日に被告和栄会との間で雇用契約書を作成しているものの、被告秀栄会との間においては、何らの合意もした形跡はない。」

「この点、たしかに、原告が当初合意した年俸は2500万円であるのに対し、被告和栄会との間の雇用契約書上の年俸は2000万円であること、被告和栄会のD事務長が被告秀栄会と原告との間で雇用契約書が作成される予定であることを認識して原告に伝えていたことからすれば、雇用概要確認書に記された勤務日の割合に照らしても、被告秀栄会との間で年俸を500万円とする雇用契約書が別途作成されるものと原告が考えたことは合理的といえる。

しかし、D事務長は被告和栄会の者であり、被告秀栄会と原告との雇用契約に関する事務を取り扱う権限を有していたとまでは認められないこと、被告秀栄会から原告に対して明確に雇用契約の内容が示されたことはないこと、被告和栄会との間の雇用契約書に記された職位や勤務時間、勤務日は、雇用概要確認書と比較して不足するところはないから、被告秀栄会における役職や勤務日を推知することもできないことなどからすれば、被告和栄会との間の雇用契約書を作成した時点で、被告秀栄会との間の雇用契約が口頭で成立したということはできない。

-被告和栄会との間での年俸額の合意について-

「雇用概要確認書を形式的に読めば、原告は、被告和栄会の雇用の下で、被告秀栄会が運営する所沢第一病院でも勤務し、年俸2500万円の支払を受けることとなるべきところ、被告和栄会とは別に被告秀栄会との雇用契約を締結するということについては、当事者間に実質的な合意が成立した形跡は一切ない。」

「前記認定のとおり、令和2年4月1日に原告が被告和栄会との雇用契約書を作成するときは、被告秀栄会との間でも別途雇用契約書を作成することが予定されており、原告もそのことを認識し、被告秀栄会から雇用概要確認書の年俸との差額である年俸500万円を受けられるものと信じていた。原告としては、被告秀栄会と別途雇用契約を締結する実益はない反面、給与の全額が被告和栄会から支払われようが、被告秀栄会と分けて支払われようが、実質的に不利益もないことから、被告和栄会からの年俸を2000万円とする雇用契約書に署名押印したものと認められる。」

「そうであれば、被告和栄会とは別に被告秀栄会との間でも雇用契約書の作成が予定されていたことは、被告ら側の事情により形式的に契約を分けるためのものに過ぎないというべきであるから、被告和栄会との年俸2000万円での契約がそれ自体で雇用概要確認書を変更するものというのは相当でなく、被告秀栄会との間の契約も成立して、雇用概要確認書どおりの条件が満たされて初めて、雇用概要確認書の内容を変更する効果が生じると解すべきである。

したがって、被告秀栄会との間で雇用契約が成立せず、原告が被告秀栄会に対する賃金請求権を形式的にも取得するに至らなかった以上、被告和栄会は、雇用契約書の記載に関わらず、原告に対し、雇用概要確認書のとおり年俸2500万円を毎月12等分して支払う義務を免れないというべきである。

3.概要確認書の段階で合意の成立が認定された

 一見すると、本件は特異な事案であり、他の事案への応用可能性に乏しいように思われるかも知れません。

 しかし、労働契約の締結過程において、中間的な合意を経た後、雇用契約書の取り交わしに至っているケースは、割と少なくないように思われます(中間的な合意を契約とみるのか単なる交渉過程の一地点にすぎないとみるのかという問題はありますが)。 

 本件の裁判所で採用されている理屈は、こうした事案に応用することができる可能性があり、覚えておいて損はなさそうに思われます。

 

防塵マスクを着用して就労した医師を解雇することは許されるか?

1.新型コロナウイルス感染に対する不安

 新型コロナウイルスに感染する不安を感じながら働いている医療従事者の方は、少なくないのではないかと思います。特に、勤務先である病院から感染防止に十分な装備を支給してもらえない場合、その不安は、察するに余りあるものがあります。

 それでは、装備品の支給が十分ではない場合に、やむなく備品を自己調達して身に付けていたことは、医療従事者を解雇する理由になるのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。さいたま地判令3.1.28労働判例ジャーナル109-2 医療法人社団和栄会事件です。

2.医療法人社団和栄会事件

 本件で被告になったのは、病院を開設して運営する医療法人社団らです。

 原告になったのは、医師の方です。原告と被告和栄会は、人材紹介会社を通じ、期間を令和2年4月1日から令和3年3月31日までとする雇用契約を交わしました。

 令和2年4月1日、原告は勤務を開始しましたが、当時品薄であったN95規格のマスクの代わりに、同等の性能を有するとされるRL2規格の防塵マスク等を着用して勤務を開始しました。

 これに対し、被告和栄会は、マスクや手袋等が患者及び近親者の不安をいたずらに惹起しているなどと主張し、原告を即日解雇しました。これを受けた原告が、解雇の無効を主張し、地位確認等を求める訴訟を提起したのが本件です。

 本件では防塵マスクの着用等が解雇事由になるのかが争われましたが、裁判所は、次のとおり述べて、これを否定しました。

(裁判所の判断)

「原告が令和2年4月1日に本件装備を着用して所沢腎クリニック及び所沢第一病院内であいさつ回りなどをしたことが、被告和栄会所沢腎クリニックの就業規則84条所定の懲戒解雇事由に該当すると認めることはできない。以下、順に述べる。」

「まず、同条ト(故意又は過失によりクリニックに重大な損害を与えたとき)及びチ(患者の個人的秘密を他に漏らしまた、患者に対し不自由・不都合な行為をしたと認められたとき)についてみるに、被告和栄会の主張する損害や不都合は、原告の姿が奇異であったことから、数名の来訪者から職員に対して新型コロナウイルス感染者が出たのかといった問い合わせがあったというようなものであるが、このような問い合わせがあったことを客観的に裏付ける証拠はないばかりか、仮にかかる問い合わせがあったとしても、クリニックに重大な損害が生じたというには足りないし、本件装備の着用自体が患者に対する不都合な行為に当たるということもできない。その他、本件全証拠をもっても、原告の上記行為によって、所沢腎クリニックに具体的な損害が生じたこと、同クリニックの患者に対して何らかの不自由、不都合が生じたことを認めるに足りる証拠はない。」

「次に、同条ヌ『破廉恥行為によりクリニックの名誉を汚したとき』についてみると、この懲戒事由が、『また刑事訴追を受け有罪と判決確定したとき』と並列に挙げられていることからすれば、ここにいう「破廉恥行為」は、倫理上、道義上負うべき義務に違反する行為で、かつその違反の程度が重大なものをいうと解するのが相当である。そして、原告の着用していたマスクは医療現場向けでない大仰な形状もので、奇異に感じる者がいるかもしれないが、被告和栄会において職員の服装に関する特段の規則はないこと、原告は白衣を着用しており、マスクの点を除いて特段奇異な服装をしていたとはいえないことに加え、当時、未知のウイルス感染が拡大傾向にあり、マスクが入手困難な状況であったことは公知といえること、被告和栄会において代替のマスクを提供する等の対応をしなかったこと等を併せ考えれば、本件装備が上記の『破廉恥行為』に当たるということはできない。

「そして、既に判示したところによれば、原告の行為が、同条カ(その他前各号に準ずる不都合な行為があったとき)に当たるということもできない。」

「したがって、被告和栄会が原告を懲戒解雇したことは、就業規則上の根拠を欠くものであり、無効である。」

3.当然の結論であろうが・・・

 防塵マスクをつけていた程度のことで即日解雇するといった乱暴なことが認められないのは、直観的には当たり前であるように思われます。

 ただ、直観的に当たり前であることでも、裁判例上の根拠があるのとないのとでは、実務的には大きな差があります。装備品の支給が不十分である場合に、個々の職員が自己調達した装備品を身に付けることは、使用者からすると、あてつけであるかのように捉えられ、あまり良い気分はしないのかも知れません。しかし、だからといって、やむなく自衛を図っている医療従事者を即時解雇するという乱暴な手段をとることが正当化されることはありません。

 マスクの品薄等は既に一定程度解消されているとは思われますが、類似した理由で解雇されてしまった医療従事者の方は、その効力を争うことを検討してみても良いかも知れません。

 

身体障害を有する年少者も健常者と同様の賃金条件で就労する可能性があるとされた例

1.障害者の逸失利益

 事件や事故で被害を受けた方は、加害者に対して損害賠償を請求することができます。賠償を求めることができる損害の一つに「逸失利益」という項目があります。これは、事件や事故がなければ、得られていたはずの利益をいいます。例えば、事件や事故で重い後遺障害が残って十分に働けなくなってしまった場合、被害者は、事件や事故がなかったとすれば得られたであろう稼働収入の賠償を求めることができます。

 この逸失利益の計算は、

事件や事故がなかたとすれば、どれだけの利益を得る蓋然性があったのか

という観点から積算されます。

 現在の社会状況のもとでは、健常者と障害者とでは、残念ながら得られる収入に一定の格差があります。そのため、同じような事件や事故に遭って、似たような被害を受けた場合でも、損害賠償として請求できる逸失利益は、被害者が健常者である場合と障害者である場合とで、顕著な差異が生じることになります。

 しかし、近時公刊された判例集に、全盲の障害者の逸失利益について、健常者と同様の賃金条件で就労する可能性があったと言及した裁判例が掲載されいていました。山口地下関支判令2.9.15労働判例1237-37 視覚障害者後遺障害逸失利益等損害賠償請求事件です。

2.視覚障害者後遺障害逸失利益等損害賠償請求事件

 本件は交通事故の被害者による損害賠償請求事件です。

 原告になったのは、全盲の視覚障害者の方です。交通事故に遭った当時、盲学校高等部に在籍する17歳の女子児童でした。

 原告の方は、交通事故により、脳挫傷、両肺挫傷、頭蓋顔骨多重骨折等の重症を負いました。その後、治療を蹴続しましたが、高次脳機能障害、発生困難、歩行困難、嗅覚脱失、味覚脱失、左難聴などを含む重篤な後遺障害が残りました(併合1級)。

 こうした損害を受けた女子児童及びその両親が、接触事故を起こした自動車の運転手に対し、損害賠償を求めたのが本件です。

 本件の争点は多岐に渡りますが、その中の一つに逸失利益の認定があります。

 原告側は

「現在の日本の障害者法制は、障害者権利条約の基本理念に基づいているところ、国家機関の一翼を担う裁判所が障害者の逸失利益を算定するに当たっても、上記基本理念である『他の者との平等を基礎とし』なければならない。また、障害者の受ける制限が社会に由来するという認識に立ち、障害のある子供も、他の子供と同様に能力や可能性を秘めた人格ある主体であることを原則とし、障害者に、障害のない者と平等の機会が与えられ、合理的配慮のもとその能力を有効に発揮して働くことのできる社会が実現できることを前提として、逸失利益を算定することが法の要請である。」

と述べ、健常の年少者と同様に、賃金センサスの男女計、全年齢、学歴計の平均賃金を基礎収入として算定すべきであると主張しました。

 これに対し、被告側は、逸失利益について身体障害者の平均賃金をもとに計算すべきだと主張しました。

 裁判所は、この問題について、次のとおり述べ、原告の方が健常者と同様の賃金条件で就労する可能性を認めました(ただし、そのような社会の実現には所要の年数を要するとし、最終的には賃金センサスの7割を基礎収入として認定しています)。

(裁判所の判断)

「不法行為により後遺症が残存した年少者の逸失利益については、将来の予測が困難であったとしても、あらゆる証拠資料に基づき、経験則とその良識を十分に活用して、損害の公平な分担という趣旨に反しない限度で、できる限り蓋然性のある額を算出するように努めるのが相当である。」

「そこで検討するに、証拠・・・及び弁論の全趣旨によれば、原告X1と同様の視覚障害のある者の雇用実態に関する公的な調査結果が判然としないこと、厚生労働省による平成25年度障害者雇用実態調査において、平成25年10月の身体障害者(身体障害のある被調査者の内訳は、肢体不自由が43%、内部障害が28.8%、聴覚言語障害が13.4%)の平均賃金が22万3000円であったことが認められる。これらの事実に加えて、本件全証拠によっても、上記調査以降に賃金格差や就労条件等が明らかに変わったと窺える事情も見当たらないことを踏まえると、現時点において、健常者と身体障害者と間の基礎収入については、差異があるといわざるを得ない。

「一方、証拠・・・によって認められる、我が国における近年の障害者の雇用状況や各行政機関等の対応、障害者に関する関係法令の整備状況、企業における支援の実例等の事情を踏まえると、身体障害を有する年少者であっても、今後は、今まで以上に、潜在的な稼働能力を発揮して健常者と同様の賃金条件で就労することのできる社会の実現が図られていくと認められる。また、証拠・・・によれば、原告X1は、本件事故時17歳であったこと、平成16年3月に□□盲学校小学部を卒業したこと、同年4月に△△盲学校中学部に入学し、平成18年4月に□□盲学校中学部に転入するまで在籍していたこと、平成19年3月に同学校中学部を卒業し、同年4月に同学校高等部普通科に入学したこと、平成30年度の△△盲学校中学部の卒業生全員が同学校上級部に進学し、高等部普通科や専攻科の生徒が大学や短大、就職をしている例もあること、原告X1が□□盲学校高等部に在籍していたときに職業見学や大学見学に参加していたこと等の事情が認められる。これらのことからすると、原告X1については、全盲の障害があったとしても、潜在的な稼働能力を発揮して健常者と同様の賃金条件で就労する可能性があったと推測される。他方、健常者と障害者との間に現在においても存在する就労格差や賃金格差に加えて、就労可能年数のいかなる時点で、潜在的な稼働能力を発揮して健常者と同様の賃金条件で就労することができるかは不明であるというほかなく、その実現には所要の期間の年数を要すると思われる。

以上の事情を総合考慮すると、原告X1にはその就労可能期間を通じて、平成28年賃金センサス第1巻第1表、男女計、学歴計、全年齢の平均賃金(489万8600円)の7割である342万9020円の年収を得られたものと認めるのが相当である。

3.三割は削られたが・・・

 上述のとおり、就労格差や賃金格差の是正に所要の年数を要することを根拠に賃金センサスから三割を減じた額を基礎収入にしました。

 減らされたのは残念ですが、それでも障害者にも健常者と同様の賃金条件で就労する可能性があると認定したことは、かなり画期的な判断であるように思われます。

 障害を持っている人は、ただでさえ生きにくい状態にのに、重篤な後遺障害まで負わされるとなると、かなりのハンディキャップを抱え込むことになります。こうした不利益を抱え込むことになりながら、健常者よりも大分少ない損害賠償金(逸失利益)しか認められないというのは、被害者保護の観点から問題があります。

 本判決は、こうした問題を是正する原動力となる可能性を持った裁判例として位置付けられます。