弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

固定残業代の効力-実際の時間外労働等の状況との乖離Ⅱ(下方向の乖離でも効力を否定する根拠になるか?)

1.固定残業代の対価性要件

 固定残業代の合意が有効といえるためには、

「時間外労働等に対する対価として支払われるものとされていた」

ことが必要とされています(最一小判平30.7.19労働判例1186-5日本ケミカル事件)。

 そして、固定残業代が、

「時間外労働等に対する対価として支払われるものとされていた」

と認められるかどうかを判断するにあたっては、当該手当で想定されている残業時間と実際の時間外労働の状況の乖離が考慮要素になると理解されています(同判例)。

 それでは、想定残業時間と実際の時間外労働等の状況について、具体的に、どの程度の乖離が認められれば、対価性が失われるのでしょうか。

 昨日ご紹介した、宇都宮地判令2.2.19労働判例1225-57 木の花ホームほか1社事件は、この問題との関係でも有益な示唆を含んでいます。

2.木の花ホーム事件

 本件は被告木の花ホーム等の従業員であった原告が、残業代等を請求した事件です。

 本件では、基本給30万円に対し、28万3333円と約131時間分に相当する固定残業代の定めを置くことの適否が問題になりました。

 固定残業代の効力は幾つかの観点から議論されていますが、その中の一つに対価性の問題があります。具体的に言うと、実際の労働時間数との乖離との関係で対価性が否定されるのではないかが問題になりました。

 この問題について、裁判所は、次のとおり判示し、対価性があることを認めました。

(裁判所の判断)

「被告らは、その賃金規程17条において職務手当の性質につき、『時間外労働に対する割増賃金として』支払われるものであることを明記した上(なお上記賃金規程の周知性に疑義を生じさせるような証拠はない。)、本件雇用契約の締結に当たって、『職務手当』の性質を確認すべく、原告に対し、本件給与通知書を交付し、『原告の給与』が『月額:583、333円(基本給(能力給)300、000円、職務手当283、333円)』であること、そして、その『職務手当』283、333円は『時間外労働に対する割増賃金の定額払い』であって時間外労働は131時間14分に相当するものであることを明示している。また、原告に対して支払われた職務手当は、1か月当たりの平均所定労働時間(173.75時間)を基に計算すると上記のとおり約131時間分の時間外労働に対する割増賃金に相当するものであるところ、原告の実際の時間外労働等の状況・・・との間に一定のかい離が認められるものの、上記固定残業代としての性質を否定するほど大きくかい離するものではない(むしろ、上記時間外労働時間数は1か月平均80時間を優に超えおり、上記131時間分の時間外労働の約3分の2に及んでいる上、1か月100時間を超えている月は6か月、90時間を超えている月になると17か月に及んでいる。)。これらによれば、原告に支払われていた職務手当は、本件雇用契約において時間外労働に対する対価として支払われるものとされていたこと(本件固定残業代の定め)が認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

注)対価性の観点からは、上述のとおり、固定残業代の効力は否定されないとされましたが、結論としては、昨日ご紹介したとおり、想定残業時間の多さを根拠に、固定残業代の効力は否定されています。

3.3分の2あれば有効? 下方向の乖離でも対価性を否定する根拠になる?

 少し前、このブログで、想定残業時間を約80時間とする職務手当について、実際の時間外労働が120時間を上回っていたという事実関係のもとで、対価性が認められないことを理由に、固定残業代の効力が否定された事案をご紹介させて頂きました。

固定残業代の効力-実際の時間外労働等の状況との乖離 - 弁護士 師子角允彬のブログ

 この判決が出たときに、

① 40時間という乖離が一つの基準になり得るのか、

② 実際の時間外労働が下方向に振れている場合にも乖離という観点から対価性が否定されることが有り得るのか、

が気になっていました。

 本件は時間外労働の実体について、

「原告の平成25年4月11日から同27年6月30日までの間の時間外労働時間(法外残業時間)は、別紙・・・『時間・賃金計算書』の『法外等労働時間』欄に記載のとおりであり、これを基にすると、上記26か月(計算上は27か月であるが、原告は平成25年6月は病気により休職していたことから、この1か月を除いて月数を計算する。)の月平均時間外労働時間は80時間を優に超えており、具体的には80時間を超えた月は22か月あり、うち100時間を超えた月が6か月あった。

と認定されています。

 本裁判例は、想定残業時間の概ね3分の2以上・30時間台の乖離については対価性が否定されるほどのものではないと判示しました。

 また、下方向での乖離が理論的に対価性を否定する材料にならないのであれば、想定残業時間と実際の時間外労働との乖離を検討する必要はないはずですが、裁判所は乖離の実体をきちんと検討しました。このことは下方向の乖離でも対価性が否定される場合が有り得ることを示しています。

 どのような場合に対価性が否定されるのかは、未だ不明な部分が多く、引き続き裁判例の動向を注視して行く必要があります。

 

固定残業代として許容されない想定残業時間のライン

1.固定残業代の有効性-想定労働時間数を問題にするもの

 「時間外労働、休日および深夜労働に対する各割増賃金(残業代)として支払われる、あらかじめ定められた一定の金額」を固定残業代といいます(白石哲編著『労働関係訴訟の実務』〔商事法務、第2版、平30〕115頁参照)。

 この固定残業代の有効性について、想定労働時間数の多さが問題になることがあります。基本給を極端に下げたうえ、100時間分、120時間分といった極めて長時間の残業を想定した固定残業代を設け、事実上定額働かせ放題とする賃金体系を構築することの適否という形で問題になります。

 あまりに長い残業時間を想定した固定残業代の仕組みを設けることを違法だとした裁判例は相当数あります。しかし、そうした裁判例と比肩するほど想定労働時間が長いにも関わらず違法性を認めなかった裁判例も決して無視できない数存在しており、

固定残業代における残業時間数の上限について - 弁護士 師子角允彬のブログ

① 適法/違法の境目となる想定労働時間数がどのあたりにあるのか、

② 適法/違法の結論を分かつ労働時間数以外の要素として、どのような要素がどの程度影響を与えるのか、

が議論されています。

 こうした議論状況のもと、①の問題について、注目すべき判示をした裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。宇都宮地判令2.2.19労働判例1225-57木の花ホームほか1社事件です。

2.木の花ホームほか1社事件

 本件は被告木の花ホーム等の従業員であった原告が、残業代等を請求した事件です。

 本件では、基本給30万円に対し、28万3333円と約131時間分に相当する固定残業代の定めを置くことの適否が問題になりました。

 裁判所は、次のとおり述べて、固定残業代の定めを公序良俗に反するものとして無効と判示しました。

(裁判所の判断)

「本件固定残業代の定めと原告の実際の時間外労働時間数は固定残業代としての性質に疑義を生じさせるほど大きくかい離するものではないが、ただ、そのかい離の幅は決して小さいものではなく、平均すると約50時間のかい離が生じている。その結果、かかる本件固定残業代の定めの下では、労働者(原告)は、1か月当たり平均80時間を超える時間外労働等を行ったとしても、清算なしに約131時間分の割増賃金(28万3333円)を取得することが可能となるため、常軌を逸した長時間労働が恒常的に行われるおそれがあり、実際、上記・・・で指摘したとおり、原告の時間外労働時間数は1か月平均80時間を優に超えているだけでなく、全26か月中、時間外労働等が1か月100時間を超える月は6か月、90時間を超えている月になると17か月にも上っていることなどに照らすと、上記・・・のとおり、本件各雇用契約の内容として本件固定残業代の定めがあることは事実としても、その運用次第では、脳血管疾患及び虚血性心疾患等の疾病を労働者に発症させる危険性の高い1か月当たり80時間程度(平成22年5月7日付け基発0507第3号による改正後の厚生労働省平成13年12月12日付け基発第1063号参照)を大幅に超過する長時間労働の温床ともなり得る危険性を有しているものというべきであるから、『実際には、長時間の時間外労働を恒常的に行わせることを予定していたわけではないことを示す特段の事情』が認められない限り、当該職務手当を1か月131時間14分相当の時間外労働等に対する賃金とする本件固定残業代の定めは、公序良俗に違反するものとして無効と解するのが相当である。

「そこで最後に、上記特段の事情の有無を検討すると、本件全証拠によっても、上記特段の事情を基礎付けるに足りる事実は認められず、むしろ、前記・・・の事実及び別紙7①及び②の各『時間・賃金計算書』のとおり、原告の実際の時間外労働時間が優に1か月80時間を超え、減少する兆しなど全く認められない期間が長期に渡って続いていたことや、上記・・・のとおり原告が本件雇用契約の締結後間もなく心臓疾患(虚血性心疾患)を発症し、C病院で冠動脈バイパス手術を受けたことがあるにもかかわらず、被告らは、自らのリスク回避のため原告から前記・・・記載の誓約書・・・を取り付けただけで、その健康維持と心疾患の再発防止に向けた具体的な措置を講じようとした形跡が認められないことなどからみて、上記特段の事情は存在しないことがうかがわれる。」

「以上によれば、本件固定残業代の定めは公序良俗に違反し無効であると解される。」

3.1か月80時間を大幅に(優に)超える長時間労働が想定→違法

 上記のとおり、宇都宮地裁は、想定残業時間の多さを問題視するにあたり、いわゆる過労死ラインとされている月80時間という時間数に言及しました。

 「大幅に」「優に」といった修飾語が付せられていることを見ると、80時間を超えれば直ちに違法となる趣旨でないとは思われますが、それでも想定労働時間数の観点から固定残業代の効力を論じるにあたり、この裁判例が示した基準には、一定の意義を認めることができます。

 固定残業代の効力を否定できると、固定残業代部分を算定基礎賃金に組み入れたうえ、残業代を改めて全額請求することができます。固定残業代を採用する会社では長時間労働が恒常的に行われていることが珍しくないこともあり、残業代を請求することは結構な経済的利益に結びつきます。月80時間を超過する想定残業時間のもとで設計されている固定残業代の適用を受けている方は、一度、弁護士のもとに残業代請求の可否に関する相談に行ってみても良いのではないかと思います。もちろん、当事務所でご相談をお受けすることも可能です。

 

他の従業員からの苦情を、本人に伝える時に求められる配慮義務

1.従業員間の軋轢に対する上司の対応

 労働事件に関する相談を受けていての実感ですが、労働者と使用者との紛争の発端には、労働者間の軋轢が背景にあることも珍しくありません。

 例えば、単なる言い掛かりにすぎない同僚からの苦情を、碌に精査もせずに鵜呑みにした上司から厳しく叱責されたことが、叱責を受けた労働者に遺恨を与え、後々の紛争の火種になっていることがあります。

 同僚からの讒言を鵜呑みにした使用者・上司の不適切な対応について、何か法的に問題にする根拠がないかと思っていたところ、昨日もご紹介した高知地判令2.2.28労働判例1225-25池一菜事件に、目を引く判示がありました。

2.池一菜事件

 本件は自殺した労働者(P6)の遺族が、勤務先に対して安全配慮義務違反に基づく損害賠償を請求した事件です。

 長時間労働のほか、代用取締役の娘(常務取締役)からハラスメントを受けたことが心理的負荷となって精神障害を発症し、自殺に至ったというのが原告の主張の骨子です。

 ハラスメントの一つとして、他の従業員から聞いたP6に対する苦情を碌に精査もしないまま文書にまとめ、これをP6に交付したという出来事がありました。

 この出来事について、裁判所は、次のとおり判示しました。

(裁判所の判断)

「ミスを他の従業員のせいにしたことや他の従業員から聞いたP6に対する苦情などを伝えた点については、企業秩序の維持や職場環境のために必要性が認められる余地はあるものの、前提となる事実関係の調査を尽くした上で、他の従業員らの苦情が事実に基づく相当なものか、相当であるとしてどのようにP6に伝えるのかなどを慎重に検討すべきであるのに、〇月6日の出来事から同月8日までのわずか2日間という短期間に文書にまとめ、P6に対しこれを交付するのみで特段の説明もしなかったという方法は、業務上の指導としては相当とはいえない。

3.他の従業員からの苦情の伝え方には一定の配慮が必要

 注意義務の措定という脈絡ではなく、業務上の指導としての相当性に関する判示ではありますが、裁判所は、同僚から苦情が出ていることを労働者に伝えるにあたっては、
① 前提となる事実関係の調査を尽くした上で、他の従業員らの苦情が事実に基づく相当なものか、
② 相当であるとしてどのようにP6に伝えるのか、
を慎重に検討すべきであると述べました。

 苦情に事実的な基盤があるのかどうか調査を尽くさなければならないとしている点と、事実的な基盤がある場合でも伝え方を慎重に検討しなければならないとしている点は、かなり高い水準の義務を使用者に課しているようにも読めます。

 問題があるから相談に持ち込まれるという職業的なバイアスがかかっているであろうことは否定できませんが、私が観測する限り、同僚の勤務態度に関する労働者からの苦情に対し、本件の判決が指摘するような対応(調査を尽くすこと・言い方を慎重に検討すること)がきちんと採れていない上司・使用者は、決して少なくないように思います。

 讒言を鵜呑みにした上司から辛く当たられたからといって直ちに採算性のある事件にすることができるわけではありませんが、こうした問題に対しても、一定の法律論を構築できないわけではないことは、一般に周知されておいても良いのではないかと思います。

 

上司と一緒の出張は心身への負荷がかかるから移動時間も労働時間

1.通勤時間・出張中の移動時間の労働時間性

 一般論として、通勤時間に労働時間性は認められません。労働力を使用者の下へ持参するための債務履行の準備行為に位置づけられるため業務性を欠くというのと、その内容においても通常は自由利用が保障されているというのが理由です(佐々木宗啓ほか編著『類型別 労働関係訴訟の実務』〔青林書院、初版、平29〕106頁参照)。

 出張前後の移動時間も、これと同様の理由から、基本的には労働時間性を有しないと理解されています(同文献107頁参照)。

 こうした議論状況のもと、近時公刊された判例集に、出張時間に労働時間性を認めた裁判例が掲載されていました。このブログでも前に二度言及したことのある、高知地判令2.2.28労働判例1225-25池一菜事件です。

自殺の予見可能性-問責にどこまでの認識が必要なのか? - 弁護士 師子角允彬のブログ

労働時間等に関する規定の適用除外と長時間労働に対する安全配慮義務 - 弁護士 師子角允彬のブログ

2.池一菜事件

 本件は自殺した労働者(P6)の遺族が、勤務先に対して安全配慮義務違反に基づく損害賠償を請求した事件です。

 長時間労働による心理的負荷がかかっている中で、代表取締役の娘(常務取締役)からハラスメントを受けたことが原因で精神障害を発症し、自殺に至ったというのが、原告の主張の骨子です。

 心理的負荷の強弱を判断するため、原告の時間外労働時間数が議論の対象となり、その流れで、出張のための移動時間の労働時間性が問題になりました。

 裁判所は、次のとおり述べて、上司とともに移動する態様での出張では、心身への負荷がかかるから移動時間も労働時間に該当すると判示しました。

(裁判所の判断)

「タイムカードには出退勤の時刻が打刻されていないが、P6の業務には、年1回ほど、1泊2日での大阪の光洋スーパーへの出張販売が含まれていたこと・・・、タイムカードの平成21年11月7日の欄に『午後~大阪』の記載と同月8日の欄にかかる記載の下に『〃』の記載があること・・・や、業務日誌の記載内容・・・からすれば、P6が被告P4に帯同して、大阪にある光洋山田店において被告会社で生産しているトマトジュース等の店頭販売を行うために、同月7日から同月8日まで大阪に出張したことが認められる・・・。また、業務日誌には、平成21年11月7日の箇所に、『午前中 休み 午後 大阪へ 社長と グッド出張』という記載があり、同月8日の箇所には、『AM10:00 ホテル出 グッド社長迎え』、『キッサでコーヒーを飲み時間をつぶす』や『昼食後 1時間程で3時に店を出て空港へ.』という記載があるため・・・、同月7日は午後から被告P4とともに大阪への移動を開始したこと、同月8日は午前10時頃に宿泊先のホテルを出発したこと、同日の店頭販売でも休憩時間を取れていたこと、予定していた店頭販売を終えて同日午後3時頃に帰路に着いたことなどが認められる。」

労働者の出張は使用者の業務命令に従って行うものであり、業務従事時間は使用者の指揮命令権に服する状態にあるから、労働時間に算入すべきである。そして、少なくとも部下が上司とともに移動する形態での出張については、移動中も部下は心理的、物理的に一定の緊張を強いられることが通常であって、心身への負荷がかかるから、移動時間も労働時間として算入するのが相当である。

「そうすると、本件大阪出張のうち、同月7日については、午後の所定就業時間である午後1時から午後5時までを、同月8日については、午前10時から午後の所定終業時刻である午後5時までを、それぞれ労働時間に算入するのが相当である。なお、休憩時間については、P6が被告会社の就業規則に定められた時間を超過したり不足したりした事情は窺われないことから、同月7日については15分を、同月8日については1時間15分を、それぞれ休憩時間として、上記労働時間から控除すべきである。」

3.残業代請求訴訟への応用の可能性

 労災民訴の場面での労働時間性と、残業代請求の場面での労働時間性とは、必ずしも同一の概念ではありません。

労働時間概念の相対性-労災認定の場面では厳密な労働時間「数」の立証がいらないこともある - 弁護士 師子角允彬のブログ

 しかし、池一菜事件の裁判所は、

「労基法上の労働時間は、労働者が使用者の指揮命令下に置かれている時間をいい、かかる意味での労働時間に該当するか否かは、労働者の行為が使用者の指揮命令下に置かれたものと評価することができるか否かにより客観的に定まるものであって、労働契約、就業規則、労働協約等の定めのいかんにより決定されるべきものではないと解するのが相当である(最高裁判所平成7年(オ)第2029号同12年3月9日第一小法廷判決・民集54巻3号801頁)。」

と割増賃金の支払請求の可否が問題となった事件で示された労働時間の定義を引用したうえ、

「そして、業務の過重性を判断する上でも、このような実労働時間を前提に判断するのが基本的には相当であるといえるから、これを前提に、P6の被告会社における始業時刻、終業時刻及び休憩時間を認定し、時間外労働時間を算定することとするが、あくまで業務の過重性を判断するという点に留意して、該当性を評価し、認定を行うものである。」

と判示しています。

 「あくまで~」以下が、労働時間概念の相対性を承認した部分という見方も可能だとは思います。しかし、基本的には、労働時間の概念は残業代請求の場面での労働時間の概念と同一に理解すると述べています。

 残業代請求の場面では、通勤時間・出張前後の移動時間は労働時間に該当しないとの見解が通説的ではありますが、今後、上司と一緒の出張に関しては、例外的に労働時間性が認められる場面が出てくるかも知れません。

 海外への出張が多い業態などにおいては、出張中の移動時間が労働時間に含まれるか否かによって、残業代が大きく違ってくることも少なくありません。気になる方は、ぜひ、一度ご相談ください。

 

従業員をゼロにすれば就業規則(退職金規程)を好き勝手に改廃できるのだろうか?

1.就業規則の変更の制限

 労働基準法90条1項は、

「使用者は、就業規則の作成又は変更について、当該事業場に、労働者の過半数で組織する労働組合がある場合においてはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がない場合においては労働者の過半数を代表する者の意見を聴かなければならない。」

と規定しています。

 また、労働契約法9条は、

「使用者は、労働者と合意することなく、就業規則を変更することにより、労働者の不利益に労働契約の内容である労働条件を変更することはできない。ただし、次条の場合は、この限りでない。」

と、同10条は、

「使用者が就業規則の変更により労働条件を変更する場合において、変更後の就業規則を労働者に周知させ、かつ、就業規則の変更が、労働者の受ける不利益の程度、労働条件の変更の必要性、変更後の就業規則の内容の相当性、労働組合等との交渉の状況その他の就業規則の変更に係る事情に照らして合理的なものであるときは、労働契約の内容である労働条件は、当該変更後の就業規則に定めるところによるものとする。ただし、労働契約において、労働者及び使用者が就業規則の変更によっては変更されない労働条件として合意していた部分については、第十二条に該当する場合を除き、この限りでない。」

と規定しています。

 このように、就業規則を労働者の不利に変更するためには、手続的にも実体的にも一定の制約が科せられています。

 それでは、労働者のいない会社では、就業規則を好き勝手に改廃することが許容されるのでしょうか?

 全従業員を受け皿となる会社に移転させて、就業規則を自由に改廃し、受け皿から再度全従業員を戻すといったことにより、就業規則の変更による労働条件の不利益変更の規制を潜脱することは可能なのでしょうか?

 この問題を考えるうえで興味深い判示をした裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令2.2.28労働判例ジャーナル102-52 アンデス事件です。

2.アンデス事件

 本件は被告(株式会社アンデス)を退職した原告が、退職金等を請求した事件です。

 被告は元々事業会社でしたが、平成8年10月1日、同じ建物の中にある関連会社であるアンデスハム株式会社に営業一切を譲渡するとともに、被告の従業員全員をアンデスハム株式会社に雇用させました。

 本件で原告になったのは、平成24年11月30日から平成30年6月28日までの間、被告と労働契約を交わしていた方です。被告からの退職の後、退職金規程が存在しているとして、退職金等の支払を求める訴えを提起したのが本件です。

 これに対し、被告は退職金規定は存在ないとして、原告の請求を争いました。

 裁判所は、次のとおり述べて、退職金規定の廃止を認定し、原告の請求を棄却しました。

(裁判所の判断)

被告に退職金規程が存在したことを認めるに足りる客観的な証拠はない。アンデスハム株式会社における退職金規程の存在及びその内容は、被告の退職金規程の存在を客観的に裏付けるものとはいえない。」

「原告は、被告の総務部長として、被告に退職金規程が存在することを熟知していた旨主張し、これに沿う陳述書・・・を提出するとともに、原告本人尋問において同様の供述をする。」

「しかしながら、上記認定事実のとおり、被告が平成8年10月1日にアンデスハム株式会社に対して営業譲渡に伴って従業員全員を同社に引き継がせていること、それ以降、被告はいわゆる資産管理会社であって原告以外には従業員が存在していないことに加え、証拠・・・及び弁論の全趣旨によれば、E(被告の元取締役)及びF(被告の元代表取締役)に対する退職金の支払はいずれも役員に対する退職慰労金の支払であり、この支払に関して何らかの規定が参考とされた事実が認められないことからすれば、上記営業譲渡に伴い退職金規程が廃止され、それ以降、退職金規程が存在しない旨の被告代表者の供述及び同人作成の陳述書・・・は信用でき、これらに反する原告作成の陳述書・・・及び原告本人の供述は採用できない。

「以上によれば、退職金規程が存在するものとは認められないから、この点に関する原告の主張には理由がない。」

3.元々退職金規程が存在しなかった/脱法的意図がなかった事案であろうが・・・

 裁判所は営業譲渡に伴い退職金規程が廃止されたから退職金規程は存在しないとの被告代表者の供述に信用性を認め、原告の請求を棄却しました。

 証拠上元々退職金規程の存在が認められない事案であったこと、営業譲渡・事業譲渡から年数が経っていて脱法的な意図を窺いにくい事案であったことには留意しておく必要があると思います。

 しかし、そうであるにしても、本裁判例は従業員をゼロにする方法での退職金規程の廃止という労働条件の不利益変更を安易に認めすぎているのではないかという気がしないでもありません。

 脱法的なスキームを裁判所が安易に認めるとは思えませんが、こうした形での就業規則(退職金規程)の改廃が認められてしまうと、事業譲渡と雇用契約の結びなおしを繰り返すことにより、労働条件の不利益変更に科せられた制約が潜脱されてしまわないかが、少し心配になります。

 

イエスマンでないことを理由にクビにできるか?

1.仕事観の違い、質問・異論・意見の提出

 解雇やハラスメントに関する相談を受けていると、経営者との仕事観の違いや、質問・異論・意見の提出が、事件の端緒になっていることが珍しくありません。

 解雇の効力が問題となる事件について言うと、こうした価値観の違いに起因する摩擦が労働者側の問題行動を誘発してしまっている場合、その問題行動に解雇事由としての客観的合理性・社会通念上の相当性が認められるのか否かが問題になります。

 しかし、労働者の中には、不穏当な行動に及ぶことなく、ただ経営者とは異なる観点からの質問・異論・意見をぶつけ続けているだけの方も相当数います。こうした不穏当な行動のない労働者に対しても、強引に解雇の踏み切る使用者は、決して少なくないように思われます。

 それでは、こうした「イエスマンでないこと」を理由とした解雇は認められるのでしょうか? 経営者と異なる仕事観を持つことや、質問・異論・意見を出すことは、会社の足を引っ張る行為として、解雇の正当性を基礎づける事実になってしまうのでしょうか?

 昨日紹介した、東京地判令2.3.4労働判例1225-5 社会福祉法人緑友会事件は、この問題を考えるうえでも参考になる判示をしています。

2.社会福祉法人緑友会事件

 本件は、原告労働者が、被告使用者に対し、地位確認等を請求した事件です。

 本件で被告とされたのは、認可保育所等を経営する社会福祉法人です。

 原告になったのは、被告が経営する保育園(本件保育園)で保育士として働いていた方です。育児休業中に復職意思を伝えたところ、理事長との間で面談の機会が設けられ、

「実際問題とすると言葉で言えば解雇なんだけど・・・、園長が無理だって言ってるものを戻せとはいえない・・・、こういうことになってしまって大変申し訳なく思う・・・」

などと言われました。

 これが解雇の意思表示であるとして、その効力が争われたのが本件です。

 被告理事長が上記のような発言に及んだ背景には、原告の方と保育園長との間の軋轢がありました。被告は、要旨、

「原告の□□園長等に対する反抗的、批判的言動が、単に職場の人間関係を損なう域を超えて、職場環境を著しく悪化させ、被告の業務に支障を及ぼす行為であった」

と主張して、解雇の正当性を支えようとしました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、解雇の効力を否定しました。

(裁判所の判断)

「被告の主張する原告の□□園長等に対する言動のうち、認定できるものは前記・・・の認定事実のとおりであり、原告が本件保育園の施設長である□□園長の保育方針や決定に対して質問や意見を述べたり、前年度の行事のやり方とは異なるやり方を提案することがあったことは認められるものの、□□園長の指示、提案に従わず、ことあるごとに批判的言動を繰り返し、最終的に決まった保育方針、保育過程に従う姿勢を示さなかったとは認められない。原告の言動が、意見の内容、時期、態様によっては、施設長であり、上司である□□園長に対するものとして、適切ではないと評価し得る部分がないとはいえないとしても、現場からの質問や意見に対しては、上司である□□園長や□□主任らが、必要に応じて回答や対応をし、不適切な言動については注意、指導をしていくことが考えられるのであって、質問や意見を出したことや、保育観が違うということをもって、解雇に相当するような問題行動であると評価することは困難である。

(中略)

「そうすると、本件で認定できる原告の言動等を前提とした場合、これらが就業規則24条7号の「その他前各号に準ずるやむを得ない事由があり、理事長が解雇を相当と認めたとき」に該当するとはいえないから、本件解雇は、客観的合理的理由を欠き、社会通念上相当であると認めることもできず、権利の濫用として、無効であると解される。」

「被告は、原告が□□園長らに対して、反抗的、批判的言動をとっていた旨主張し、証人園長もそれに沿う供述をするとともに陳述書・・・を提出している。□□園長の供述及び同人作成の陳述書は、原告が原告グループとされる保育士らとともに□□園長や□□主任に対する反抗的な態度をとり、A保育士やC保育士と事前にすり合わせて職員現況等調査に□□園長や□□主任に対する批判的な記載をするなどした旨供述するものであるが、原告本人、証人A及び証人Cはこれに反する供述をするとともに陳述書・・・を提出しているところ、原告が原告グループとされる保育士らとともに、意図的に園長らに対する反抗的、批判的態度をとっていたことを裏付ける証拠は認められず、質問や意見をされた側の主観的な受け止め方によるところも否定できないことからすると、証人□□の陳述書及び供述は、前記認定事実と整合する範囲においてのみ信用することができ、前記認定事実に反する部分は信用することができない。」

「また、被告は、本件解雇の有効性の検討に当たっては、園児の最善の利益を踏まえて検討すべきである旨主張するが、そもそも、原告の□□園長らに対する言動については、解雇理由に該当するようなものがあったということはできないことからすれば、被告の主張は前記認定を左右するものではない。

3.質問や意見を出したことや価値観(保育観)の違いは解雇事由にならないし、勝手に顧客利益を決めたうえで解雇することは許されない

 上述のとおり、裁判所は、現場からの質問や意見に適切に対応するのが管理職・上司の務めであり、質問や意見を出したことや、価値観(保育観)の違いをもって問題行動と評価することはできないと判示しました。

 また、質問や意見をされた側の主観的な思い込みを事実認定の資料とすることに慎重な姿勢を示し、問題行動もないのに、勝手に顧客(園児)利益を定義して労働者を追い出すことも、許されないと判示しました。

 当たり前のことではありますが、雇われるということは、経営者や上司と仕事観を同一にしなければならないことを意味するわけではありません。イエスマンになりきらなければ社会人失格というわけでもありません。疑問を持つこと、意見を述べること、異論を出すことは、それ自体決して非難されることでもありません。

 イエスマンではなかったとしても、不穏当な行動にさえ及ばなければ、そう簡単に解雇が認められることはありません。価値観や意見の違いを理由とする解雇されて納得できない方は、一度弁護士に相談してみると良いと思います。

 

退職の意思表示の認定-「慎重に検討する必要がある」とされた例

1.退職の意思表示には「自由な意思に基づいていない」との理屈が通用しにくい?

 労働法の領域では、

「自由な意思に基づいていない。」

との理屈で、合意の効力を否定できる場合があります。

 しかし、合意退職、退職の意思表示の場面で、こうした理屈を適用できるかには争いがあり、適用を否定した裁判例があることは、以前、このブログでも言及させて頂いたとおりです。

https://sskdlawyer.hatenablog.com/entry/2019/09/10/000625

 上記の記事で紹介した東京地判平31.1.22労働判例ジャーナル89-56 ゼグゥ事件は、

「退職届の提出という局面においては、労働者は使用者の指揮命令下から離脱することになるうえ、退職に伴う不利益の内容は、使用者による情報提供等を受けるまでもなく、労働者において明確に認識している場合が通常」

であることを理由に、退職の意思表示の効力を「自由な意思に基づいていない。」との理屈で争うことを、否定しました。

 それでは、退職の意思表示の効力は、民事上の他の意思表示と全く同じような感覚で認定されてしまうのでしょうか? 重大な効果をもたらすという観点から、認定に何等かの制約が及ぼされることはないのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令2.3.4労働判例1225-5 社会福祉法人緑友会事件です。

2.社会福祉法人緑友会事件

 本件は、原告労働者が、被告使用者に対し、地位確認等を請求した事件です。

 本件で被告とされたのは、認可保育所等を経営する社会福祉法人です。

 原告になったのは、被告が経営する保育園(本件保育園)で保育士として働いていた方です。育児休業中に復職意思を伝えたところ、退職勧奨を受けました。その流れで被告理事長からの説明に「はい。」と発言したことや、退職者一覧に自分の名前を記載するように求めたことが、退職を承諾する意思表示を認定する根拠になるのかが問題になりました。

 この問題について、裁判所は、次のとおり述べて、合意退職の成立を否定しました。

(裁判所の判断)

「被告は、平成30年3月23日の原告と被告理事長との面談において、退職合意が成立した旨主張するので、検討する。」

「この点、労働者が退職に合意する旨の意思表示は、労働者にとって生活の原資となる賃金の源である職を失うという重大な効果をもたらす重要な意思表示であるから、退職の意思を確定的に表明する意思表示があったと認められるか否かについては、慎重に検討する必要がある。

「本件についてみると、前記・・・によれば、原告は、平成30年3月23日、被告理事長との面談において、被告理事長から、□□園長が無理だといっていることから復職をさせることはできない旨を伝えられ、退職を条件に3か月の特別休暇の提案を受けたのに対し、これを断り、解雇理由証明書の発行を求めていたことが認められるところ、このような原告の言動は、原告が退職に納得していないことを示すものと解される。そして、証拠・・・によれば、原告が、被告理事長の説明に対し、『はい。』などと述べていることは認められるものの、会話の流れを全体としてみれば、単に相槌を打っているに過ぎないと解され、被告理事長からの復職は認められない旨の発言に対し、このような原告の発言をもって、承諾をしたと評価することはできない。

「そうすると、原告が被告理事長から復職させることはできない旨を伝えられたのに対し、それを承諾する旨の意思表示をしたと認めることはできない。」

「一方、被告理事長は、実際には解雇である旨述べた上、園長が無理だという以上戻すことはできないとして、復職はできないことを明言していること、当該面談の後に、原告の求めに応じて解雇理由証明書を発行していること・・・からすれば、被告理事長の原告に対する当該面談における復職させることはできない旨の通告は、実質的には、原告に対する解雇の意思表示であったと認めるのが相当である。」

被告は、原告が平成30年3月末の本件保育園の退職者の一覧に自分の氏名を加筆させたことは、原告が退職に同意していたことを示す事情である旨主張するが、解雇に不満があったとしても、保護者や園児に対して復職できないことを伝えるために退職者一覧に自己の氏名を載せるように求めることは不自然とはいえないから、原告の当該行為によって承諾の意思表示があったと推認することはできず、当該事情は前記認定を左右するものとはいえない。

「また、証拠・・・によれば、被告が解雇理由証明書の内容について、原告の希望どおりに記載しようとしていたことは認められるものの、このような被告側の行為をもって、原告が解雇を受け入れていたと評価することはできない。」

「したがって、平成30年3月23日の面談において、原告と被告との間に退職合意が成立した旨の被告の主張は理由がない。」

3.「慎重に検討する必要がある」との法理

 原告が退職の合意自体の存在を争い、合意の事実そのものが認定できないとされたため、本件では合意の外形的事実を前提とする「自由な意思に基づいていない。」との理屈の採否が問題になることはありませんでした。

 そのため、本件の裁判体が、合意退職の場面での「自由な意思に基づいていない。」との理屈の当否について、どのような考え方をしているのかは分かりません。

 しかし、効力を論じる以前の問題、生の事実としての退職合意の認定の在り方について、

「退職の意思を確定的に表明する意思表示があったと認められるか否かについては、慎重に検討する必要がある。」

と明言した部分は、汎用性が高く、重要な判示だと思います。「慎重」な「検討」の意味内容によっては、「自由な意思に基づいていない。」との法理を適用するのと似たような結論を導ける可能性があるのではないかと思います。実際、裁判所は「退職者の一覧に自分の氏名を加筆させ」るといった退職意思を推認させる事実について、復職できないことを伝える手段として「不自然とはいえない」と危うげな理屈を構築してまで、原告の救済を図っています。

 本件のような裁判例の存在を踏まえると、合意退職が争点となる事件を受任するにあたっては、「慎重に検討する必要がある」の法理と「自由な意思に基づいていにない」の法理との、二つの観点から検討を進めて行く必要があると言えそうです。